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日本人の物語01523【室町/東国/享徳の乱】五十子の陣*

五十子と書いて「いかっこ」と読みます。埼玉県本庄市の地名です。

 享徳の乱勃発から2年が過ぎました。徐々に両軍の陣地が固まってきたところですので、ここらで両軍の形勢をまとめておきましょう。
 関東8ヶ国は、概ね次のとおり分かれました。
【成氏方】常陸・下総・上総・安房・下野
【上杉方】上野・武蔵・相模
 つまり現在の都道府県区分でいうと、概ね茨城・栃木・千葉が成氏方で、群馬・埼玉・東京・神奈川が上杉方となります。
 成氏方の陣地を見ていくと、まず総大将たる成氏の本陣が古河(茨城県古河市)にあり、地図上でみるとほぼ最前線に位置していることが分かります。古河を取り囲むように、宇都宮氏(栃木県宇都宮市)、小山氏(栃木県小山市)、千葉氏(千葉県佐倉市)、真里谷武田氏(千葉県木更津市)、里見氏(千葉県館山市)などが本拠を構えており、海路も含めいずれの国境線からも侵入を許さない構えです。
 一方、上杉方は「上杉ライン」とでもいうべき強固な防衛線を構えています。南から見ていくと、今川範忠が鎌倉、太田道真が岩付城(さいたま市岩槻区)、扇谷上杉持朝が河越城(埼玉県川越市)、山内上杉房顕が平井城(群馬県藤岡市)、長尾景仲が白井城(群馬県渋川市)をそれぞれ拠点としており、さらに越後上杉房定が越後国(新潟県)内に多数の兵を擁しています。成氏は東関東に完全に封じ込められているのです。
 康正3/享徳6(1457)年に入ると、関東管領の山内上杉房顕は五十子(いかっこ:埼玉県本庄市)に大きな陣を築き始めました。そこに大将格の扇谷上杉持朝・長尾景仲・太田道真らが集結してきます。
 当時、関東に下向した成氏の兄・成潤もまた五十子の陣に呼ばれ、さらに連歌師の飯尾宗祇も来訪するなど、五十子はこれ以降、関東の軍事的・政治的・文化的中心都市として成長していきました。
 同じ頃、太田道真の子の道灌(どうかん:1432~1486)が上杉家の中で頭角を現してきました。道灌は上杉ラインの間を埋めるように、武蔵国に江戸城(東京都千代田区)を築いて成氏方に対抗しました。江戸城の守護神として、日枝神社(ひえじんじゃ)も建てられました。
 太田道灌は現在の首都である東京を最初に開発した領主として知られ、日暮里駅(東京都荒川区)前に道灌像があるほか、西日暮里駅前には「道灌山」の地名が残るなど、都内で親しまれています。
 ちなみに岩付城を築いたのは太田道真と伝えられていますが、最近の研究では成田自耕斎(なりたじこうさい)なる人物だそうです。道真・道灌父子については伝説が多く、何が史実なのか特定するのが難しそうです。

五十子の陣について、埼玉県本庄市役所のHPにこんなやり取りが載っていたので引用します。
【意見・提言】先⽇、五⼗⼦の陣の史跡を⾒に⾏ったら何もなく困惑しました。(中略)五⼗⼦の陣は享徳の乱の最重要拠点であり、⼀時は関東の中⼼にもなった場所です。歴史ファンの中には現地に⾏ってみたい⼈は多くいると思います。そのような⼈が訪れた際、付近に何もないというのはさみしく思います。せめて看板を⽴てて、ここが五⼗⼦の陣跡ですとわかるようにしてほしいです。
【回答】この度は、本市の史跡に興味をお持ちいただき、実際に現地を訪れていただいたことに感謝を申し上げます。〇〇様のおっしゃる通り、五十子の陣は、近年の研究によりますと、応仁の乱に先駆けて、戦国時代が始まる契機となった重要な遺跡と言われております。そのため、多くの歴史研究家や愛好家の方が現地を訪れていますが、堀や土塁などの明確な遺構が残されておらず、かねてより解説の看板を設置してほしいとの要望があったところです。しかし、現地が公共用地ではないため、行政で自由に看板を立てるといったことが難しかったところですが、令和3年3月に地元の方のご厚意により敷地をお借りして、解説の看板を設置したところでございます。(後略)

埼玉県本庄市の五十子の陣。謎の象がいる。右側にあるのが令和3年に市役所が建ててくれた看板。2024年9月14日撮影。
五十子の陣の看板。2024年9月14日撮影。

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