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日本人の物語00702【鎌倉中期】鎌倉中期総括

 元寇直後の北条時宗の死まで描いたところで、鎌倉中期の稿を閉じたいと思います。
 鎌倉中期は、たった3代しか続かなかった源氏将軍の時代が終わり、執権北条氏が全権を掌握した執権政治の時代です。主として3代泰時・5代時頼・8代時宗が活躍し、4代経時・6代長時・7代政村はその間を埋めるように在任しました。
 北条家の嫡流は代々短命でした。泰時は59歳まで生きたものの、子の時氏は27歳、孫の経時は22歳、同じく孫の時頼は36歳、曽孫の時宗は32歳で死去しています。これだけ短命な家系が最高権力者の座を上手く世襲できたのには、北条一族の分家筋の協力があってのことでした。分家筋である6代長時と7代政村は、時頼死去時にはまだ12歳だった時宗をよく育て、時宗政権への移行を円滑に行いました。
 長時・政村が時宗政権までのつなぎとして活動したということは、ある意味、
「本来は北条氏の嫡流が代々執権職を継いでいくものだ」
という常識が既に根付いていたことを意味します。
 鎌倉幕府発足時には、北条のほかにも三浦・和田・比企など有力御家人がひしめきあっていたわけですが、義時による大粛清の効果もあって、もはや北条に対抗できる勢力はなくなっていたのでしょう。本来、鎌倉幕府とは源氏の棟梁のもとに御家人たちが集まったものであったのに、この頃には「北条を筆頭に集まった武士団」に様変わりしていたわけです。
 この時代、朝廷から発出される幕府宛ての文書を見ても、全て執権「北条〇〇殿」に宛てられています。九条家や皇族から出された将軍は蚊帳の外で、何らの実権を持たない象徴的な存在であることを、朝廷自身も認めていたのです。
 源氏将軍の時代の初代時政・2代義時に比べ、この時代の執権たちがどのように幕府を統治していたかを見ていきますと、比較的好戦的な為政者が減り、穏健な方法で統治がなされたといえます。3代泰時は伊賀氏の変という政争を誰も殺さずに乗り切りましたし、5代時頼は宝治合戦で三浦一族を滅ぼしたものの最後まで戦を回避しようと努力していました。8代時宗は二月騒動で名越兄弟や兄・時輔を葬ってはいますが、2年に1度のペースで有力御家人を誅殺していた義時の時代には比べるべくもありません。
 泰時・時頼・時宗は義時が確立した独裁体制を引き継ぎながらも、鎌倉幕府を安定的に運営した為政者だったと総括できるでしょう。
 元寇という最大の危機をどうにか乗り切った執権北条氏でしたが、その後の社会は混迷を極め、幕府は滅亡へと向かっていきます。次回からは幕府崩壊への道を見ていくこととなります。

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