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日本人の物語00390【平安後期】75代崇徳天皇

 さて、待賢門院璋子の縁談をめぐって藤原忠実は白河法皇の信任を失ってしまったわけですが、その後、顕仁親王の産まれた元永2(1119)年3月25日に、白河法皇は忠実の荘園を停止してしまいます。本格的ないじめが始まったと考えてよいでしょう。
 さらに忠実が追いつめられる契機となる事件が、保安元(1120)年に起こりました。鳥羽天皇が藤原忠実に対し、忠実の娘・勲子(くんし:1095~1156)を入内させてほしいと要請したので、忠実がこれに応じたところ、白河法皇は「私は許可していない」と激怒したのです。
 これにより、11月12日、白河法皇は忠実の内覧を停止しました。要するにクビということです。
 忠実は「運が尽きた」とぼやき、宇治に隠居することとなりました。これにより、忠実に代わって藤原家の氏長者となったのは、忠実の長男・藤原忠通でした。この事件を「保安元年の政変」といいます。
 しかし、この政変により忠通が最高権力の座についたかというと、どうやらそういうわけでもなさそうです。というのも、白河法皇が最高権力者である以上、どうしてもその側近があることないことを法皇に吹き込み、自らに好都合な人事を決定できるようになってしまうわけで、この側近が忠通よりも強大な権力を持つことになるのです。
 院政期における法皇の側近を「院近臣(いんのきんしん)」と呼ぶのですが、この時期に院近臣として権勢を振るったのが藤原顕隆(ふじわらのあきたか:1072~1129)でした。
 会議も開催されないまま夜間に重要な人事が決定されることが多く、顕隆は「夜の関白」などと呼ばれるようになりました。藤原宗忠の日記『中右記』には
「天下の政、この人の言にあり」
と記されています。顕隆は元永3(1120)年に従三位に上がり、保安3(1122)年にやっと参議になった人物ですから、官位自体はさほど高くもないのにまるで関白のような実権を握ったわけです。側近政治の最たるものですね。
 保安4(1123)年1月28日。白河法皇の意向により鳥羽天皇は譲位させられ、「叔父子」こと顕仁親王が僅か3歳8ヶ月で即位しました。崇徳天皇です。
 鳥羽は20歳の若さで上皇になったわけですが、もちろん権力はその後も白河法皇が握り続けました。
 鳥羽にとっては、政治上の実権も祖父に握られているうえに、中宮・璋子をも奪われているわけで、祖父が死ぬのをひたすら待っているような心境だったでしょう。

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