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日本人の物語00594【鎌倉前期】比企能員の変 姫の前との離縁

 比企能員の変は、ある夫婦の仲を引き裂いたと考えられています。北条義時とその正妻・姫の前(ひめのまえ)です。
 義時には元々、阿波局(あわのつぼね)という妻がおり、その間に長男・泰時(やすとき:1183~1242)をもうけていました。この阿波局とは、義時の姉で阿野全成と結婚した阿波局とは同名の異人です。当時、女房名のバリエーションは少なかったので、たまたま近隣の2人の名が重複してしまったのでしょう。
 余談ですが、歴史家の坂井孝一氏は、この阿波局は頼朝の最初の妻である八重(00457回参照)と同一人物であろうと推測しており、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもそのように描かれています。
 義時の二人目の妻が姫の前でした。姫の前は比企能員の姪に当たり、大層な美人だったといいます。吾妻鏡には、
「義時が1年あまりもの間、姫の前に恋文を送っていたが、姫の前は一向になびかなかった。それを見かねた頼朝が、義時に絶対に離縁しない旨の起請文を書かせ、二人を結婚させた」
との記述があります。
 義時と姫の前との間には、次男・朝時と三男・重時が産まれました。朝時は名越の時政邸を継いでそこに居住したので名越朝時(なごえともとき:1193~1245)、重時は極楽寺を創建したので極楽寺重時(ごくらくじしげとき:1198~1261)と呼ばれることになります。
 義時と姫の前のカップルは、当初は北条と比企の協力関係を象徴するものだったでしょうが、両家は並び立たず、結果的に比企は滅ぼされてしまいました。姫の前が両家の狭間でいかに苦悩したのか気になるところですが、残念ながら記録がありません。
 さて、定家の日記『明月記』の嘉禄2(1226)年11月5日の条を見ると
「源具親(みなもとのともちか)の子は朝時の同母弟で、幕府から任官の推挙があった」
とあります。つまり、いつの間にか姫の前は源具親との間に子をもうけているのです。
 ここから推測されることは、姫の前は(恐らくは比企能員の変が原因で)義時と離縁し、京の公家である源具親と再婚したということです。比企能員の変は義時の離婚を引き起こしたわけですね。
 ちなみに名越朝時は、実朝の妻・坊門信子(ぼうもんのぶこ:1193~1274)に仕える女房に手を出して謹慎を命じられており、北条一族の問題児だったようです。朝時に始まる名越北条氏は、その後も宮騒動、二月騒動を起こしており、不満分子が多い一族のようです。
 一方、重時に始まる極楽寺北条氏は、北条氏の嫡流をよく支え、この後も幕政の中核を担う一家として重宝されていきます。

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