日本人の物語00388【平安後期】叔父子誕生
さて、藤原公実の遺児にして、6歳で白河法皇に引き取られた璋子をご記憶でしょうか。
その璋子は、白河法皇と祇園女御のもとですくすく育ち、永久3(1115)年には14歳となっていました。当時としては結婚適齢期です。
白河法皇は
「そろそろ璋子に良い相手を見つけてやらねばならない」
と考え、藤原忠実の嫡子・忠通(ただみち:1097~1164)との縁談を進めようとします。忠通は18歳で、璋子は14歳ですから、適齢のカップルですね。
ところが忠実は、妙な噂を耳にしてしまいます。「璋子と白河法皇はただならぬ仲だ」というのです。8年前、当時54歳の白河法皇が6歳の璋子を引き取って育てたわけですから、白河法皇が璋子に手を出していたとしたらまさに犯罪的なわけですが、側室を大量に召し抱えている女好きの白河法皇なら、あり得ないことではありません。「そのような噂のある女を息子の嫁に迎えるわけにいかない」と考えた忠実はこの縁談を拒否します。
白河法皇は激怒し、これを機に忠実は白河法皇の信任を失っていきます。
縁談を拒否された白河法皇が、次に璋子を送り込もうとした相手は、なんと自分の孫・鳥羽天皇でした。スキャンダラスな噂が流れてしまい、縁談を受けてくれる相手が他にいなかったのかもしれません。
永久5(1117)年12月13日。璋子は鳥羽天皇のもとに入内し、その後まもなく中宮となります。璋子が16歳で鳥羽天皇は14歳でした。
しかし、この縁談は両者にとって不幸なものとなりました。璋子は白河法皇を慕って、たびたび白河法皇に会いに行ってしまいます。世間では「密通している」との噂が流れ、鳥羽天皇は祖父・白河法皇を恨むようになりました。
元永2(1119)年5月28日。璋子が男児を出産し、顕仁親王(あきひとしんのう:後の崇徳天皇:1119~1164)と名付けられました。しかし、鳥羽天皇は
「父親は自分ではなく法皇であろう」
と疑います。もし自分ではなく祖父の子なのだとしたら、顕仁親王は叔父ということになります。鳥羽天皇はこの子を「叔父子」と呼んで、毛嫌いしました。
この怨嗟が、その後、摂関藤原家の内紛と複雑に絡み合って、皇室内の内紛、ひいては武力衝突にまで発展していくこととなります。その武力衝突の結果、武士が台頭し、皇族・貴族の世を終わらせることとなるのですから、白河法皇はなんと罪作りな君主だったことでしょう。
ちなみに璋子は天治元(1124)年に「待賢門院(たいけんもんいん)」という院号を受けたので、「待賢門院璋子」と称されることが多い人物です。以後、本稿でも待賢門院璋子と呼ぶこととします。
