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日本人の物語01550【室町/西国/応仁の乱】東岩倉の戦い

東岩倉というと、もう滋賀県側から見た京都の入口というイメージです。逆に東寺は大阪側から見た京都の入口です。秋庭たちはだいぶ迂回したようですね。

 応仁元(1467)年9月14日。細川家臣・秋庭元明と赤松家臣・浦上則宗が上洛してきました。この2人は勝元の命を受けて摂津で大内軍の上洛を防ごうとしたものの果たせなかった人物でしたね。彼らは大内軍の後を追って上洛してきたのです。
 9月16日。両者は東寺口から洛中に入ろうとしたものの、敵の数があまりに多かったため東へ迂回し、南禅寺の裏山である東岩倉山(京都市左京区)に布陣しました。
 西軍はこの目障りな秋庭・浦上軍を討つべく、9月18日から東岩倉山の攻撃を開始しました。しかし秋庭・浦上軍は意外に善戦し、攻め上ってくる敵に岩を落としたり石つぶてを投げたりして防戦を続け、半月以上も粘りました。この戦いによって、近傍の南禅寺や青蓮院が炎上してしまいます。
 相次ぐ寺院焼失を知った後花園上皇は、9月20日に予告なく出家してしまいます。明らかに戦乱への抗議の意を示したものでした。
 東岩倉山がなかなか落ちないので、10月2日に西軍はやむなく自軍へと引き返しました。これを見た秋庭・浦上軍は、敵のいない隙に北から迂回して入京し、上御霊社を通って東軍本陣へと辿り着きました。秋庭・浦上はやっとそれぞれの主君と対面することができ、喜び合いました。
 西軍にとっては、東岩倉を落とせなかったせいで東軍の増強を許してしまったわけですが、ここに至って西軍は遂に禁じ手を繰り出します。東軍が布陣する最大の本拠地・相国寺(京都市上京区)を、全軍をもって襲撃しようというのです。
 相国寺は以前述べたとおり3代将軍義満が築いた寺院であり、京都五山の第二位に格付けされています。そもそも「相国」とは唐の言葉で大臣を意味するもので、義満を意味する名称なのです。
 6月22日にも西軍が鹿苑寺を襲って破却したことがありましたが、あのときも金堂が壊されただけで、義満が最も腐心して建てた金閣は無事でした。それほど、義満の存在は幕府内では絶対的なものでした。その義満を象徴する相国寺を襲撃するというわけですから、もはや西軍は幕府そのものを否定する行動に出たといってよいでしょう。
 また、相国寺は将軍御所に隣接しており、その将軍御所には将軍義政だけでなく後花園法皇・後土御門天皇もいるのです。戦の火の粉が飛んでいくかもしれないのに、法皇・天皇・将軍の在所の目と鼻の先で本格的な合戦が行われるとは、東軍側は全く予想していませんでした。
 いよいよ、応仁の乱の中でも有数の激戦といわれる相国寺合戦が始まります。

相国寺には当時約100メートルの七重の塔が建っていて、今で言うとスカイツリーみたいな場所なんでしょうね。

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