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日本人の物語01557【室町/西国/応仁の乱】少弐教頼自害

少弍氏の歴代当主は戦で死んでばかりです。

 ここで時間を遡って、九州の戦況についても見ておきましょう。
 九州については、永享5(1433)年8月19日に大内持世率いる幕府軍が、反乱軍の大将・少弐満貞を討ち取ったところまでお話ししました(01367回参照)。このとき満貞の子・少弐教頼は舅である宗貞盛に庇護され、対馬へと逃れました。
 教頼は、文安3(1446)年に宗貞盛が細川勝元に嘆願したおかげで赦免され、翌文安4(1447)年には肥前に戻ることができました。
 しかし復帰後の教頼は全く大人しくしていませんでした。文安5(1448)年1月には肥前で大内教弘に敗れ、享徳3(1454)年3月には巨勢野(佐賀県佐賀市)で九州探題・渋川教直(しぶかわのりなお:1422~1479)に敗れ、松浦へと逃亡しました。長禄3(1459)年には筑前国に入りましたが、再び大内教弘に敗れ対馬へと逃れました。
 寛正6(1465)年9月3日に筑前守護・大内教弘が死去したことで教頼に転機が訪れました。9月10日付けで筑前守護に再任されたのです。これほど反逆ばかりしていた少弐教頼が見事守護職を射止めたのは、大内と敵対関係にある細川勝元が幕政を主導していたためでしょう。
 応仁の乱が始まると、教頼はもちろん大内政弘を葬るべく東軍方に属しました。大内政弘が京に向かったのをいいことに、その留守を突いて勢力回復を図ろうと、宗成職(そうなりもと)・宗盛直(そうもりなお:?~1468)と共に大宰府を攻めましたが、敗北しました。
 応仁2(1468)年になると、今度は肥前の千葉教胤や肥後の菊池武国(きくちたけくに)と協力し、大宰府を拠点とする筑前守護代・仁保盛安(にほもりやす)を攻めましたが、これまた大内政弘の命を受けた筑紫頼門(つくしよりかど)や渋川義種(しぶかわよしたね)の軍に敗北しました。宗盛直が戦死するほどの大敗だったようです。
 追い詰められた少弐教頼は、12月6日、筑前志摩郡の高祖城(福岡県糸島市)において自刃しました。少弐家の家督は子の政資(まさすけ:1441~1497)が継承することとなりました。
 少弐教頼の生涯は、まさに敗北続きのものでした。大内との戦いで父を失ってから30年に渡って復讐に身を投じてきましたが、一度も勝っていません。
 大内を倒して大宰府を復興し、筑前を治めたいとの教頼の夢は、子の政資に託されることとなりました。しかし大内はあまりに強大で、この後も少弐家は大内家に脅かされ続けるのです。

この時代、大宰府とは既に古い権威の象徴のようなものかもしれませんね。

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