日本人の物語01456【室町/西国/大乱前夜】大乗院経覚の復帰
また敵味方が一部入れ替わるので、大変ややこしい話になります。
【⑤大和国における旧南朝方と旧北朝方の争い 続き】
経覚が己心寺に入ったことを幕府は追認しましたが、かといって大乗院門主への復帰までも許してくれたわけではありません。そこで経覚は、禁じ手に手を染めてしまいます。それは「アンチ義教で一致する南朝方・越智氏の協力を得て復帰運動を行う」という手段でした。経覚にとって越智氏はかつて敵対していた相手ですが、畠山持国が復権した今、大和では筒井氏より越智氏の方が影響力を持っており、頼るべき相手だと思ったのでしょう。
大乗院門徒たちは
「現在の門主・尋尊は12歳と幼少であり、零落を余儀なくされてきた。経覚の復帰を心から願う」
との評定書をまとめて幕府に提出しました。幕府も門徒たちの意見を無視できず、やむなく嘉吉元(1441)年11月15日付けで経覚を大乗院門主に復帰させました。
ところが歴史家の安田次郎氏によると、この門徒たちの手になるという評定書は経覚の筆跡そのものだそうで、明らかに偽造なのだそうです。経覚はかくも巧みな処世術によって見事興福寺に返り咲いたのでした。
当然ながら、経覚の後任として大乗院門主となっていた尋尊はひどく困惑しました。とはいえ、12歳の尋尊が百戦錬磨の47歳の経覚と互角に渡り合える訳がありません。
困惑したのは門徒たちも同様でした。経覚が復帰するからといって、現役の尋尊を追い出すわけにもいかず、門徒たちはやむなく経覚と尋尊を「師弟関係」と位置付けることで両者仲良くしてもらうよう働きかけました。
こうして経覚率いる興福寺大乗院は、越智氏と結びついたことで反筒井方となりました。大和の勢力地図は大きく入れ替わり、次のとおりになりました。
北朝方→義教派: 筒井氏、成身院光宣
南朝方→反義教派: 畠山持国、越智氏・豊田氏・箸尾氏、大乗院経覚
こうして経覚と光宣との対立が本格化していきます。この対立が火を噴くきっかけは、関銭(関所の通行料)を徴収する役割を担う「関務代官職」をめぐる問題でした。
それまで大和国内の関務代官職は筒井氏が独占しており、この時点では成身院光宣が任じられていました。しかし光宣はその関銭を興福寺に納めず自らの懐に入れていたため、それに憤った経覚は光宣を解任するよう幕府に訴えます。
ところが経覚の訴えは裏目に出ました。嘉吉2(1442)年11月1日、光宣は兵をもって南都七大寺(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)をを全て占拠するという威嚇行動に出たのです。
経覚と尋尊、2人の個性的な僧が詳細な日記を残してくれているおかげで、この時代のことがよく分かります。
