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日本人の物語00210【奈良】大夫人呼称問題

 藤原氏の兄弟たちと長屋王。両者の権力が伯仲している中、この政争に勝つために必要なのは、聖武天皇に取り入り、高い評価を得ることだったでしょう。しかしながら、聖武天皇の即位直後、長屋王はその生真面目さゆえに重大な失点を犯してしまいます。それは聖武天皇の母親に関する問題でした。
 聖武天皇の母・藤原宮子は出産以降、精神を病み、そのせいで一度も息子に会っていませんでした。聖武天皇としては、その母とどうにかして対面したい、正気に戻ってほしいという思いが強かったようです。
 そこで聖武天皇は即位に当たって、母・藤原宮子を「大夫人(たいふじん)」と呼称するよう勅を出しました。そのような立派な称号を与えられることで、少しでも母が喜んでくれて、正気に戻ってくれるのではないか……という気持ちだったのでしょう。
 しかし、大宝律令において「大夫人」とは、前天皇の皇后を指す称号です。藤原宮子は文武天皇の妃ではありますが皇后ではないので、「大夫人」と呼称すべきではありません。律令のルールに従うならば、「皇太夫人(こうたいふじん)」と呼称すべきです。
 聖武天皇はなぜルールに背くことをしようとしたのか。その裏には、藤原四子の謀略があったと考えられます。
 この時代、天皇に嫁いでいても、皇族出身の女性しか皇后(正室)になることができませんでした。藤原氏としては、自分たちの一族である光明子をどうにかして皇后につかせたいわけです。そのための布石として、文武天皇の妃(側室)であった藤原宮子に、本来皇后でなければ与えられない称号を与えようとしたのでしょう。聖武天皇は母を思うあまり、無邪気にその謀略に乗ってしまったわけでした。
 しかし、これをストップしたのが長屋王でした。3月22日、長屋王は大宝律令の規定上「大夫人」はあくまで前天皇の皇后を指す称号であって、それを曲げるべきでないと主張しました。左大臣である長屋王からそのように言われ、聖武天皇はやむなく勅を撤回します。
 この出来事は、天皇といえども大宝律令という法令に従わなければならないという「法の支配」という考え方が日本で初めて行使された事例といえるでしょう。長屋王の対応は極めて理にかなったものではありましたが、この出来事を機に、藤原氏のみならず聖武天皇の立場からも長屋王が邪魔な存在になっていったのだろうと考えられます。
 思うに、生真面目な長屋王には「一流国家にのし上がっていくためには法令に基づいた国作りが重要だ」という思いがあったのでしょう。一方、藤原四子は「天皇のご機嫌さえ取れればそれで良い」と思っており、国の在るべき姿など考えたこともなかったのでしょう。
 しかし、往々にして思想や識見を持たないイエスマンの方が謀略に長け、思想も識見も持った気骨ある政治家を蹴落としていくものです。
 権力欲に突き動かされた藤原四子たちは、長屋王排斥の陰謀をめぐらしていくこととなります。

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