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日本人の物語00191【飛鳥】大海人皇子のいちばん長い日

 天智天皇10(671)年1月6日。天智天皇は近江令(おうみりょう)を制定しました。
 天智天皇は、唐に沿って「律(刑法)」と「令(行政法)」を作ることにしたのでしょうが、まずは「令」だけが出来上がったわけです。全22巻の法令です。
 十七条憲法は法律とはいえないため、これが日本史上初の法律ということになります。とはいえ、近江令はその内容が伝わっていないため、存在を疑う説もあります。
 同年9月。天智天皇は病に倒れました。そうなるとにわかにくすぶり始めるのが、後継者問題です。天智天皇は、子の大友皇子にこそ皇位を継承させたいと考えていました。それは、大友皇子を太政大臣に就任させたことから見ても明らかです。
 しかしながら、群臣たちの人気は、むしろこれまで功を挙げてきた大海人皇子にあるのです。天智天皇から見れば、大友皇子を即位させるよう自分が遺言したとしても、自分の死後にみんながそれを守ってくれるかどうかが心配です。できることならば、自分の生きている間に大海人皇子を亡き者にしたいことでしょう。
 病状が悪化する中、10月17日になって天皇は
「大海人を呼べ」
と命じました。
 蘇我安麻呂(そがのやすまろ)は大海人皇子を呼びに行きますが、このとき
「お気をつけて発言されますように」
と注意しました。僅かでも失言すれば、たちまち殺されてしまうぞということです。
 大海人皇子にとって最も緊張する一日が始まりました。皇位を狙う気持ちを少しでも見せてしまうと命はありません。
 宮殿に行き、天智天皇を見舞うと、天智天皇は
「皇位はそなたが継いでくれ」
と言い放ちます。これは大海人皇子の本音を引き出すためのブラフでした。
 大海人皇子の答えはあくまでも慎重でした。
「皇位は皇后に継がせ、大友皇子を皇太子とするのが良いでしょう。私は出家して隠居します」
 大海人皇子のいう「皇后」とは、天智天皇の正室の倭姫(やまとひめ)のことです。敏達天皇が崩御したとき皇后の推古天皇が即位したように、また、舒明天皇が崩御したとき皇后の皇極天皇が即位したように、天皇が不意に崩御して後継者がいないときには、やむを得ず皇后が中継ぎとして即位するケースがあったのです。それに倣って倭姫が即位すれば良いではないかというわけです。
 大海人皇子はこう答えることで、無事に帰ることができました。
 それにしても、天智天皇という人物は最後の最後まで猜疑心に満ちた独裁者だったのですね。

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