見出し画像

日本人の物語01499【室町/西国/大乱前夜】文正の政変 貞親失脚

「文正の政変」は大河ドラマ『花の乱』でも漫画『新九郎、奔る』でも取り上げられていましたが、解釈が分かれる難しい事件のようです。

 畠山義就は寛正4(1463)年11月13日に赦免を受けていたものの、上洛の許可がなかなか下りず、吉野に籠もったままでした。義就は遂に実力で家督を勝ち取ろうと決心し、文正元(1466)年8月18日、吉野を出発して京に向かいました。8月25日には壺坂寺(奈良県高取町)に布陣します。この時点で宗全から支援の約束があったのかもしれません。
 許可なく上洛を試みる義就の行為は、幕府への反逆といってよいでしょう。管領・畠山政長の命を受けた成身院光宣らが鎮圧に向かいますが、義就方には越智家栄・古市胤栄(ふるいちいんえい:1439~1505)といった味方が集まっており、なかなかの強者揃いです。
 9月2日には、義就軍は政長方の烏帽子形城(大阪府河内長野市)を陥落させました。政長は河内守護代の遊佐長直(ゆさながなお:?~1493)を差し向けましたが、義就軍に駆逐されてしまいます。
 そして義就上洛戦のさなかの9月5日、「文正の政変」と呼ばれる不思議な事件が起こります。この事件はどう解釈すべきか非常に難しいものなのですが、とりあえず起こったことを淡々と記し、解釈は後で考えることにしましょう。
 この日、伊勢貞親が将軍義政に対し、
「今出川殿(義視)が謀反を起こそうとしているので成敗されたい」
と密告しました。密告を受けた義政はひどく驚き、弟・義視を討つよう指示しましたが、義視は間一髪、後見人たる細川勝元の邸宅に逃れました。
 そして翌6日。勝元が義政に対して
「今出川殿(義視)の謀反は虚説であり、伊勢貞親一派の讒言によるものです」
と報告した結果、なんと一転して伊勢貞親らに罰が下ることとなり、
・伊勢貞親は近江に逐電し、そのまま引退
・斯波義敏は越前に逐電し、家督を返上
・季瓊真蘂は隠居
となりました。剥奪された義敏の守護職と家督は、斯波義廉に与えられることとなりました。
 9月11日、義政は弟・義視のもとに、富子の兄に当たる日野勝光(ひのかつみつ:1429~1476)を派遣し、義視討伐の意思は一切ない旨を伝えました。義視謀反の噂は虚偽であると認めたのです。これにより兄弟の確執はとりあえず解消しました。
 この貞親失脚事件はなぜ起こったのでしょうか。
 そもそも、放っておけば間もなく将軍になることが内定している義視が、兄に謀反を企てる必要は全くないはずです。伊勢貞親の讒言は虚偽とみてよいでしょう。では、なぜ貞親はそのような讒言を行う必要があったのか、考えてみましょう。

富子の兄・日野勝光が初登場しました。大河ドラマ『花の乱』では草刈正雄が好演していました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集