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日本人の物語00221【奈良】46代孝謙天皇

 天平17(745)年。橘諸兄政権の片翼を担っていた玄昉が、筑紫国の観世音寺(かんぜおんじ:福岡県太宰府市)に左遷され、その後まもなく病死しました。左遷の原因は不明ですが、おそらく藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ:706~764)の策謀でしょう。仲麻呂は武智麻呂の次男で、天平12(740)年に正五位上、天平13(741)年に従四位下、天平15(743)年に従四位上参議と順調に昇進を重ね、頭一つ抜きん出ることとなりました。
 玄昉については、後に「玄昉は空高く連れ去られ、生首となって興福寺に落ちてきた」との伝説が広まりました。玄昉には何らかの天罰が与えられたというのです。玄昉は何らの悪行を犯したわけではないのですが、不思議な伝説ですね。政敵たちが流した噂でしょう。
 さて、天平21(749)年1月14日には聖武天皇が行基から菩薩戒を受け、出家しました。現職の天皇が出家するのはこれが初めてのことです。
 その後4月14日には元号が「天平」から「天平感宝」に改められました。四文字の元号は奈良時代にのみ使われたレアなものです。中国唯一の女帝である則天武后が四文字の元号を使っていたため、皇太子・阿倍内親王が則天武后にあやかって四文字元号を日本でも導入したのだろうといわれています。
 原則として天皇が出家すると、その後速やかに譲位するという不文律があります。天皇は皇祖皇宗のための宗教的儀式を執り行う義務があります。神道的な儀式を行うためには、仏門に入っている身では差し障りがあるということでしょう。
 7月2日。聖武天皇は譲位し、阿倍内親王が即位しました。孝謙天皇です。元号は「天平感宝」から「天平勝宝」に改められました。「天平感宝」は3ヶ月半しか使われずに終わり、史上2番目に短い元号となりました。
 さて、孝謙天皇が即位してからは、橘諸兄に代わり、藤原仲麻呂が実権を握り始めました。これ以降、公式記録上、諸兄の登場回数が激減していきます。諸兄の役職は左大臣のままでしたが、隠居に近い状態だったのでしょう。
 仲麻呂はかねてより「行政機構を唐風に改革すべきである」と主張していましたが、実権を握るとすぐに、行政機関の名称を唐で使われている名称に変更しました。「外国かぶれ」と言ってしまうとそのとおりですが、当時としては世界的にも最大の帝国であった唐を見習うことが、一流国への仲間入りになるという意識があったのでしょう。
 天平勝宝元(749)年。仲麻呂は、皇后に仕える組織「皇后宮職」を「紫微中台(しびちゅうだい)」と改称し、その長官(紫微令)に就任しました。
 紫微中台は、言わば光明皇太后からの命さえ受ければ何でもできる組織です。藤原氏出身の光明皇太后からすると、仲麻呂は甥です。仲麻呂の実権掌握のために様々な工作をしてくれたことでしょう。
 光明皇太后の後ろ盾を得た仲麻呂は実権を掌握し、重要政策は全て紫微中台が決定することになりました。

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