日本人の物語01226【南北朝最末期】明徳の乱 満幸処分
小学生の頃、「紅葉狩り」というのは紅葉の葉っぱを取ってきて芋でも焼くのかと思っていました。
元中7/明徳元(1390)年9月。九州の戦局が動きました。良成親王は立て籠もっていた宇土城を了俊に落とされ、名和顕興(なわあきおき)を頼って南下し、高田御所(熊本県八代市)へと移りました。さらに翌元中8/明徳2(1391)年には高田御所も落とされ、良成親王は遂に了俊と和睦を結びましたが、和睦自体が偽りだったのか、はたまた和平の条件が守られず不服に思ったのか、矢部(福岡県八女市矢部村)へと逃亡し、そこで南北朝合一(後述)を迎えます。
一方、備後平定から1年半が経過した元中8/明徳2(1391)年10月、義満のもとに山名時熙・氏之(時義派)から訴状が届きました。領国を失った時熙・氏之は密かに京の清水寺付近に潜伏し、出家した上で義満に無実を訴える訴状を書いたのです。訴状には「全ては満幸の讒言によるものであり、我々は無実である」と書かれていました。この訴状もまた、義満にとっては渡りに舟でした。
折しも、山名氏清は宇治の別荘で紅葉狩りを予定しており、将軍義満に誘いをかけていました。義満はその紅葉狩りの場で氏清にこの訴状を見せ、時熙・氏之の復権について相談しようと考えました。つまり山名家の内紛を再発させようと企んだのです。
紅葉狩り前日の10月11日、氏清は堺(大阪府堺市)を出発して宇治に向かっていましたが、淀(京都府八幡市)を通っていたとき、甥の満幸がやって来てこう言いました。
「宇治に行かれてはなりません。時熙・氏之が密かに将軍に赦免を願い出ているようです。将軍のお心は赦免する方針で固まっています。宇治に行くと将軍からその旨を伝達されてしまいます」
氏清は愕然とします。将軍から時熙・氏之の復権について直接相談されると、承諾するほかありません。すると彼らから得た伯耆・隠岐・但馬は返還させられることになってしまいます。氏清は堺へと引き返し、主催者でありながら風邪と称して宇治での紅葉狩りを急遽欠席してしまいました。
間一髪、伯耆・隠岐・但馬の取り上げを免れた氏清・満幸でしたが、その後しばらく経った11月8日、義満は突如として満幸の出雲守護職を罷免し、丹波に下向するよう命じました。その理由は、
「出雲の横田荘(島根県奥出雲町)は(後円融)上皇の所領であったのに、これを押領した上に返還に応じないのはけしからん」
とのことでした。
怒り心頭に発した満幸は、丹波に向かう前に和泉に行き、叔父・氏清に決起を呼びかけました。全ては義満の目論見通りに進んでいます。
