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日本人の物語01061【南北朝中期】北朝4代後光厳天皇

歴代天皇の中で一番無理のある即位の仕方をした方のお話です。

 畿内と東国での一大決戦が終結したものの、まだ各地で小競り合いは続いており、尊氏は未だ鎌倉を離れることができません。京にいる義詮を遠隔操作し、尊氏は懸案の天皇問題を解決しようとします。
 室町幕府にとって早急に行わなければならないのは、京に天皇をいただくことです。賀名生に拉致された崇光天皇の返還は望むべくもないので、別の天皇を立てるしかありません。
 光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁皇太子の4人全員が拉致されている状況の中、かろうじて残っていたのが光厳上皇の次男・弥仁親王でした。弥仁親王は当時14歳で、出家する予定だったのをギリギリで取りやめ、即位を準備させました。
 さっそく即位の儀式を執り行いたいところですが、三種の神器がありません。いや、正確にいうと北朝は延元元/建武3(1336)年に後醍醐天皇から没収した三種の神器をもって北朝3代崇光天皇の即位式を行ったわけで、それは南朝方の主張によると偽物の神器なのですが、その「偽物」の神器すらもありません。
 三種の神器を持たない状況で即位した天皇としては、後鳥羽・光厳・光明の3例があります。いずれも「治天の君」たる後白河法皇・花園上皇・光厳上皇の院宣によるものでした。つまり天皇に即位するには三種の神器か院宣のいずれかが必要ということですが、今回は上皇が2人とも拉致されていて不在です。もはやどうしようもありません。
 尊氏が頼ったのは、光厳・光明両上皇の母に当たる西園寺寧子(広義門院)でした。彼女に上皇の代わりを務めてもらおうというのです。寧子は藤原家の出身であってそもそも皇族ですらないので、代理で院宣を発するのは無理があります。その上、寧子はそもそも尊氏が何の相談もなく南朝に突然降伏したことに怒っていたのですが、佐々木道誉が説得に当たったところ、どうにか応じてくれました。
 正平7/観応3(1352)年8月17日。寧子の指名によって弥仁親王は即位しました。後光厳天皇です。
 三種の神器もなく、院による指名もない中での即位であり、一条経通(いちじょうつねみち:1317~1365)は「継体天皇の先例がある」などと主張してかろうじて論理付けをしました。確かに26代継体天皇は有力豪族・大伴金村の指名を受けて即位しましたが、三種の神器は持っていた気がするのですが……。
 即位に際し、八咫の鏡についてはかつて鏡が入っていた唐櫃をもってこれに代用しました。剣と勾玉については代用品すらありませんが、二条良基が
「尊氏が剣の代わり、不肖この私が勾玉の代わりとお思いください」
と述べたといいます。
 ちなみに賀名生で幽閉中の光厳上皇は、あくまで隠し子である直仁親王の即位を願っていたため、後光厳天皇の即位を喜びませんでした。幽閉が解かれた後も生涯、後光厳天皇と親しく交際しなかったといわれています。

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