日本人の物語01357【室町/義教期】町田城陥落
町田といっても東京都町田市ではなく、茨城県常陸太田市の城です。
将軍義教と鎌倉公方持氏の関係悪化が更に進みます。
幕府と鎌倉府の対立は様々な氏族における代理戦争を引き起こしましたが、その最たるものが常陸守護職をめぐる佐竹本家と山入家の百年戦争でした。これまで述べてきたとおり、佐竹家は山内上杉家から養子入りした佐竹義人に乗っ取られ、これに納得しない山入与義・祐義父子がずっと佐竹本家と戦い続けていました。一度和睦し、両者は常陸を半分ずつ分けて半国守護となっています。
ところが、永享2/正長3(1430)年2月に将軍義教は、佐竹義人と山入祐義の双方に対し、持氏討伐の命を下しました。山入祐義にとって持氏は父の仇であり、討つのに何の躊躇もありませんが、佐竹義人にとっては大恩ある相手であり、幕命とはいえそう簡単には討てません。義人は迷いながらも、とりあえず鎌倉に攻め込むための兵を集め始めました。
義人が裏切りそうだと知った持氏は怒り、逆に義人の太田城(茨城県常陸太田市)を攻めるべく兵を集めます。持氏の怒りを知った義人は使者を派遣して謝罪し、
「義人が隠居し、今後は家政の一切を嫡子の義俊(よしとし:1420~1477)に任せる」
と誓約することでようやく許されました。義人はどうも優柔不断なように見えますね。
持氏はさらに、佐竹義人に山入祐義を討伐するよう命じます。これを受けた佐竹義人・義俊父子は、9月13日、山入方の町田城(茨城県常陸太田市)を攻撃しました。こうなっては、もはや佐竹本家は幕府に反逆したと評価できます。
佐竹家の記録では、町田城は陥落し山入祐義が戦死したことになっています。ところが他の文献ではこの後も山入祐義は頻繁に登場するので、死んではなさそうです。記録が錯綜しているのでしょう。
このように、持氏は山入家を攻撃することで幕府への反逆の姿勢を示していますが、一方で翌永享3/正長4(1431)年3月中旬には、なぜか融和を図ろうと模索しています。幕府に対し、二階堂盛秀(にかいどうもりひで)を使者として派遣し、謝罪しているのです。これまでさんざん将軍職を狙って義教の意向を踏みにじってきたのに、どういう風の吹き回しでしょうか。
恐らく、この謝罪使節は持氏本人が送ったものではないのでしょう。というのも、持氏が配下の領主たちに発出する文書は相変わらず「永享」でなく「正長」を用いており、今なお幕府に敵対する意図があるように見えるのです。謝罪使節を送ったのは関東管領・山内上杉憲実かもしれません。
義教は義持ほど優しくはないですから、持氏もそろそろ矛を収めないと大変なことになりそうです。
