日本人の物語00251【平安前期】52代嵯峨天皇
大同4(809)年4月1日。平城天皇は体調不良を理由に譲位し、皇太子だった弟の神野親王が即位しました。嵯峨天皇です。
皇太子に立てられたのは、平城上皇の子である高岳親王(たかおかしんのう:799~865?)でした。平城上皇は、
「仲の悪い弟に一時的に天皇位を譲ってやるが、その後は自分の子孫が代々天皇を継いでいくこととしたい」
くらいに思っていたのでしょう。
さて、平城上皇は皇太子だった頃(つまり安殿親王と呼ばれていた頃)、藤原縄主(ふじわらのただぬし:760~817)と妻・藤原薬子(ふじわらのくすこ:?~810)の間に産まれた長女を妃としていました。この長女の名は伝わっていません。
しかし安殿親王は、妃よりも妃の母に当たる薬子に夢中になってしまい、一大スキャンダルに発展します。この薬子は古代日本を代表する「妖婦」として知られています。年頃の娘がいたわけですから結構なお年だったはずですが、男を夢中にさせてしまう妖しい魅力を備えていたのでしょう。
このスキャンダルにより、安殿親王は父・桓武天皇の怒りを買うこととなりました。弟の神野親王(嵯峨天皇)との兄弟仲が悪化する原因となったのも、これが原因かもしれません。
その後、安殿親王は平城天皇として即位した後も、薬子を秘書役である内侍司(ないしのつかさ)に任命して傍に置いていました。内侍司とは、天皇の命令を太政官たちに伝達する役割を担っており、天皇の側近中の側近です。
さて、病のため譲位した平城上皇は療養のため平城京に移り住むのですが、内侍司の薬子を平城京に連れていってしまいます。そのため、嵯峨天皇は太政官への命令の伝達ができなくなってしまうのです。
大同5(810)年3月10日。嵯峨天皇はやむなく「蔵人(くろうど)」という新規の組織を設置しました。内侍司に代わる天皇の秘書役です。
蔵人のトップが「蔵人頭(くろうどのとう)」です。蔵人頭に就任したのは、嵯峨天皇の一番の側近である藤原冬嗣でした。この人事が、その後冬嗣を藤原氏の長の座に押し上げることとなります。
同年9月6日。平城上皇は突然平城京に遷都すると宣言しました。側近の藤原薬子の唆しによるものとみられます。遷都という天皇に属する権限を上皇が勝手に行使したわけです。
当時、上皇と天皇の権限について、正確な棲み分けがなされていませんでした。今回、上皇が平城京で療養中に「ここを都とする」と言い出したものですから、官吏たちは天皇と上皇のいずれに従えば良いものか、混乱することとなります。
