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日本人の物語01375【室町/義教期】経覚追放

義教、敵を増やし過ぎです。

 大和永享の乱は延々と続き、終わる気配を見せません。越智維通軍の勢いは強く、幕府が何度討伐軍を派遣しても鎮圧できずにいます。そんな中で、義教は味方であるはずの興福寺別当・経覚を追放してしまいます。その経緯について見ていきましょう。
 きっかけは永享9(1437)年10月に、後花園天皇が将軍御所を訪問したことでした。義教は天皇を歓待するために、10月22~23日にかけて舞御覧を行いました。
 天皇の出席する舞御覧では、慣例上、将軍は摂関家や門跡に舞人への謝金を負担するよう求めることとなっています。このとき義教は、大乗院経覚と一乗院教玄(いちじょういんきょうげん)にそれぞれ50貫文の負担を命じました。
 教玄の方は荘内から税を徴収することで間に合わせ、要求通りの銭を支払いましたが、経覚の方はこれを断りました。これが経覚追放の原因となります。
 翌永享10(1438)年4月、経覚は上洛して義教に謁見を申し入れましたが、義教は謁見を許さず中山定親から
「なぜ払わないのか」
と詰問させました。経覚の答えは
「今まで私がどれだけ負担してきたと思っているのか。これ以上は耐えられない」
というものでした。
 義教は激怒しましたが、ここで時折しも大乗院の門徒たちから
「悪辣な経覚を追放してほしい」
との訴えが幕府に対して提起されました。タイミングが良すぎるので、これは幕府方から働きかけて出させたヤラセ的な訴えでしょう。
 これを受けた幕府は、8月3日付けで経覚の追放を命令しました。経覚はやむなく8月7日に近所の己心寺(こしんじ:奈良県奈良市)に移りましたが、幕府から
「奈良近傍での隠居はならぬ」
との厳しい命令が来たため、8月12日に立野の宝寿寺(奈良県三郷町)に移りました。
 幕府は経覚の後任となる大乗院門主として、前摂政・一条兼良の子で9歳の尋尊(じんそん:1430~1508)をあてがうこととしました。
 経覚の後任に35歳年下の尋尊が就いたわけですが、この2人の性格は実に対照的なものでした。経覚はこの後、復権を求めて猛烈な政治活動を行ったり、応仁の乱にも進んで関与して利益を得ようとするのに比べ、尋尊は常に客観的な観察者として日記を記しており、争いから距離を置こうとするのです。

数年前、呉座勇一氏の『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになりましたが、その本は経覚と尋尊が主役となっており、興福寺から見た応仁の乱が描かれています。

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