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日本人の物語01236【南北朝最末期】南北朝最末期総括

遂に南北朝時代が完結です。一般的には建武期のことも南北朝時代と呼びますから、00811回から01236回まで、400日以上に渡って連載してきたことになります。手前味噌ですが、恐らく南北朝時代の通史としては史上最も詳しいものが出来たのではないでしょうか。(軍記物からの引用が多いので学術的な価値はあまりないですが)

 義満と頼之のタッグによって、遂に56年の長きに及んだ南北朝時代が終結しました。
 思えば延元元/建武3(1336)年に朝廷が二つに分裂してから、毎年のように大規模な戦乱が起こっていました。この56年間の動向をまとめてみましょう。
最初期(1336~1339):北畠顕家・新田義貞ら南朝の主力が戦死し、後醍醐天皇が崩御。
初期(1339~1348):佐々木道誉、土岐頼遠ら婆娑羅大名が横行。楠木正行戦死。
前期(1348~1352):観応の擾乱開始。緒戦で当事者の高師直と足利直義が死去。
中期(1352~1360):山名や斯波が南朝方に寝返り、九州は南朝方に落ち、京都も3度陥落。
後期(1360~1368):仁木・畠山・細川が幕府に反旗を翻し、幕府さらなる苦境に。
末期(1368~1379):管領頼之の活躍で守護への統制強まるも、斯波の暗躍で頼之失脚。
最末期(1379~1392):義満が独裁者の風格を備え、山名を挑発して葬る。
 思うに、南北朝の動乱が長引いた原因は2点あります。
〇幕府内の内紛が南朝方に有利に作用したこと
 「幕府内で失脚した有力守護が南朝と結びつく」という構図が4回(山名・斯波・仁木・細川)連続して起こり、その度に南朝は息を吹き返しました。討伐の対象となった細川頼之がもし南朝に降っていたら、南北朝合一はさらに遅れていたでしょう。
〇緒戦の段階で当事者が死去したこと
 南朝方で幕府との和睦ができる実力者は後醍醐天皇しかいなかったのに、その後醍醐天皇が南朝発足の3年後に崩御してしまい、誰も和睦を言い出せなくなってしまいました。観応の擾乱についても同様に、擾乱開始3年後に直義が死去したため、直義の後継者たちは誰も和睦できなくなりました。
 豊臣秀吉は「私が死んだら朝鮮から兵を退け」と言い残して死んだそうですが、この遺言がなければ日本は朝鮮に深入りしてしまい、平和な江戸時代はやって来なかったかもしれません。当事者、それもカリスマ性のある人物が死去すると、後継者たちはその意向に数十年振り回され続けるのです。
 ともあれ、南北朝を終わらせたのは有力守護への統制を強めた管領頼之と、その意志を引き継いだ将軍義満の功績にほかなりません。有力守護が将軍の意向に従うようになったがゆえに、南朝の息の根は止まったのです。
 南北朝合一という祖父の代からの宿題を片付けた義満は、その後室町幕府の最盛期を築き上げることとなります。
 なお、南北朝合一によって南朝の息の根は止められましたが、合一の条件が守られなかったことを不服としてなおも抵抗を続ける「後南朝」と呼ばれる一団があります。その「後南朝」の動向についてもこれから折に触れて紹介していくことになるでしょう。

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