日本人の物語00404【平安後期】77代後白河天皇
久寿2(1155)年7月23日。鳥羽法皇と美福門院得子がかわいがっていた近衛天皇は、16歳の若さで崩御しました。子はいませんでした。前々から健康を害してはいたのですが、その健康状況は対外的に明らかにされていなかったため、このにわかな崩御は様々な噂を呼ぶこととなります。
さて、皇太子はいませんでしたから、次の天皇をどうするかが問題です。
崇徳上皇はもちろん、子・重仁親王を皇位に就けようとしますが、鳥羽法皇はこれに反対します。かといって適任者がいるのかというと、前述のとおり鳥羽法皇の子たちは
・次男通仁は生まれつき盲目
・三男君仁は筋骨に障害があり歩行困難
・四男雅仁は、声が枯れるまで一日中今様を歌い続けるなど奇行が多く、暗愚と評判
ですから、なかなか適任者がいません。
そこで、「雅仁親王の子の孫王(そんおう:後の二条天皇:1143~1165)はどうか」という話が出てきます。孫王は12歳で、このとき仁和寺で生育中でした。
とはいえ、27歳の雅仁親王を差し置いて子の孫王を即位させるわけにもいかず、
「とりあえず中継ぎとして雅仁親王に即位いただこう」
ということになりました。
7月24日、雅仁親王は即位しました。後白河天皇です。源平合戦の時代に君臨し、強い個性で武士の世を混乱させたあの後白河天皇は、元々は「中継ぎ」という役割で即位したのでした。この後白河がいかに変人だったかは、この先少しずつお話ししていくことになるでしょう。
さて、8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り守仁親王(もりひとしんのう)と命名され、即日のうちに立太子しました。
これで、崇徳上皇にとっては自らの子孫が皇位を継ぐ目が消えたこととなります。崇徳上皇の鳥羽法皇への怒りは最高潮に達します。
鳥羽派と崇徳派の対立はとどまるところを知りません。しばらくして、
「近衛天皇が崩御したのは崇徳上皇・藤原忠実・頼長が呪詛したせいだ」
との噂がまことしやかに囁かれるようになりました。この噂は、得子と藤原忠通が流したものといわれています。鳥羽法皇はこの噂を信じて、藤原頼長の内覧を停止し、兄・忠通を関白に戻しました。
崇徳上皇、藤原忠実・頼長、平忠正、源為義。
鳥羽法皇と対立した者たちは、そろって辛酸をなめさせられました。この翌年に鳥羽法皇が崩御し、抑圧された彼らの怒りが爆発することとなります。
