日本人の物語00346【平安中期】三条天皇失明
長和2(1013)年7月6日。三条天皇に嫁いでいた妍子が禎子内親王(さだこないしんのう:1013~1094)を出産しました。男子ではなかったため道長はひどく不機嫌だったといいます。
長和3(1014)年。三条天皇は眼病を発症し、左目が見えなくなってしまいます。その翌年には両目とも失明し、体も動かなくなってきました。道長との権力闘争だけでなく、難病と闘わねばならなくなったのです。
ちょうどその頃、失火により不動倉などが焼失する事件がありました。これを受けて道長は三条天皇に「天が主上を責め奉っている」と発言しました。火災発生と眼病は三条天皇に徳が足りないからだと難癖をつけて、三条天皇の退位を迫ったのです。
さて、三条天皇と娍子(藤原済時の娘)との間に敦明親王という皇子が産まれていたことをご記憶でしょうか。このとき敦明親王は20歳になっていました。
この敦明親王と藤原定頼の従者同士が乱闘騒ぎを起こしました。ここまではよくあることなのですが、これを恨んだ敦明親王が藤原定頼を打擲してしまいます。敦明親王というのは随分乱暴な人物だったようですね。
敦明親王には、藤原顕光が次女・延子(のぶこ:985~1019)を嫁がせており、最近、その延子との間に敦貞親王(あつさだしんのう:1014~1061)が誕生したばかりでした。
子が誕生して少しは落ち着くかと思いきや、敦明親王の乱暴はさらに続きます。長和4(1015)年。窃盗で逮捕されていた敦明親王の従者が、脱獄して敦明親王の住居へ逃げ込みました。それを追いかけてきた検非違使を従者らが打擲しました。これではまるで、敦明親王を囲む一味は犯罪組織のようです。
道長は「顕光がしっかり指導しないからだ。帝はなぜ敦明親王を勘当しないのか」と日記に憤懣を記しています。もはや道長と天皇の対立は抜き差しならぬ状況になっており、三条天皇自身が悪いわけでもないのに、敦明親王の問題は全て三条天皇に責任があるのだと道長は糾弾しているのです。
一方、三条天皇の側も道長との関係には相当なストレスを感じていたようです。同じ頃、三条天皇が「今日は体の具合が良いが、それを知った道長は不機嫌なようだ」と発言したとの記録があります。二人の関係はここまで悪化しているのかと呆れるばかりですね。
病状の悪化を受け、藤原公任と源俊賢までもが三条天皇に譲位を進言するようになりました。おそらく道長の意を受けてのことでしょう。三条天皇は徐々に道長に追い詰められていきます。
