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日本人の物語00776【鎌倉末期】摩耶山麓/久々知/瀬川の戦い

 ここからは、後醍醐天皇に味方する勢力が結集して六波羅探題と戦っていく様子を描いていくことになります。
 元弘3/正慶2(1333)年閏2月11日、赤松円心らが立て籠もる摩耶山城(兵庫県神戸市)を攻めようと、六波羅探題が六角時信ら5千騎を派遣したことは既に述べました。
 円心は幕府方が予想した以上に戦上手でした。円心は摩耶山城の麓に兵を下ろして、わざと敗北して幕府軍が狭い山道に深入りするよう仕向けました。そして逃げづらい狭い山道に大量の幕府軍が足をとられている間に、横から大量の矢を射かけたのです。これにより幕府軍には大量の犠牲が出ました。
 しかし幕府方はまだまだ大量の兵を擁していました。閏2月28日、六波羅探題は1万の援軍を摩耶山城に送り込みます。
 3月10日。赤松円心・則祐父子が決戦を前に50騎で久々知(兵庫県尼崎市)において休息していたところ、幕府方の小笠原勢3千騎に襲われました。円心がいかに戦上手でも、さすがに数の差を埋めることはできません。赤松勢は大敗し、父子含め僅か6騎になってしまいます。赤松父子は死を覚悟して、6騎で敵軍に突っ込んでいきましたが、旗印を捨てていたため敵は赤松父子に気づかなかったらしく、気づくと無事に敵陣を抜けていました。
 辛くも命を長らえた赤松父子は、翌3月11日、瀬川(大阪府箕面市)に陣をとる敵軍の偵察に向かいました。見ると敵は2、3万の大軍に膨れ上がっていましたが、赤松父子は僅か3千騎でこれに決死の奇襲を仕掛けます。
 圧倒的な兵力差にもかかわらず、敵は大軍過ぎて全く統制が取れておらず、右往左往するばかりでした。奇襲に成功した赤松父子が300人もの敵を討ち、敵の大軍はまごまごして逃げていきました。
 赤松則祐が勢い立って、
「勝ちに乗じて、逃げる敵を追撃しましょう。このまま六波羅を落とせるはずです」
と主張したため、赤松勢はそのまま京へと進撃していきます。
 則祐の言うように、この勢いで六波羅探題を陥落させることができれば話は早かったのですが、そうはなりませんでした。この後、赤松父子を始め、護良親王、千種忠顕、児島高徳といった後醍醐方オールスターズが何度攻撃を加えても、六波羅はなかなか落ちないのです。次回以降、六波羅勢と後醍醐方が何度も合戦を重ね、まさに一進一退の攻防を繰り広げる状況を説明していきます。

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