日本人の物語00889【建武期】天皇還京 恒良親王への譲位
後醍醐天皇は言います。
「私が京へ行くと義貞が朝敵とされてしまうことだろう。それを防ぐため、皇太子に天皇位を譲って、義貞と一緒に北国へ下そう。これまで私に尽くしたくれたのと同様、皇太子を盛り立てて欲しい」
後醍醐天皇のいう「皇太子」とは、一緒に比叡山に逃げていた五男・恒良親王です。このとき後醍醐天皇の傍には長男・尊良や四男・宗良も一緒にいたのですが、恒良の母が阿野廉子なので、五男の恒良が最も気に入られていたのでしょう。
後醍醐天皇の提案は、ここで天皇位を恒良親王に譲り、義貞と一緒に越前に逃れるというものでした。そうすれば義貞が朝敵になることはないというわけです。
義貞も、あれほど怒っていた堀口貞満も、「そこまでしてくれるのか」と涙を流して天皇の決断に感動しました。こうしてその日のうちに、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、神器を譲り渡したと太平記は記しています。
延元元/建武3(1336)年10月10日の朝、後醍醐天皇(もはや天皇ではないかもしれませんが)は輿に乗って比叡山を降りていきました。
後醍醐天皇とともに京へ戻ったのは、吉田定房、万里小路宣房、坊門清忠、大舘氏明たち。
一方、恒良親王とともに越前へ行ったのは、新田義貞、尊良親王(後醍醐の長男)、洞院実世、脇屋義助、堀口貞満たちでした。ちなみに洞院実世の父・公賢は足利方についたので、この父子は敵味方に分かれてしまったことになります。
さらに、宗良親王(後醍醐の四男)が北畠親房とともに伊勢へと落ち延びていきました。宗良親王と北畠親房は伊勢で約2年を過ごした後、関東に派遣されることとなるのですが、それはまだ後ほどお話しすることとなるでしょう。
このとき、2人の皇子の行き先を別にしたのはリスク分散のためと考えられます。
さて、後醍醐天皇一行が法勝寺(京都市左京区)辺りまで来たところで、足利直義が迎えに来ました。直義が
「まずは三種の神器を帝(光明天皇)にお渡しください」
と述べたため、後醍醐天皇はおとなしく神器を直義に渡しました。その後、後醍醐天皇は花山院に幽閉状態に置かれました。
「あれ?」とお思いですよね。神器は既に恒良親王に渡したはずなのに、後醍醐は再び神器を直義に渡したのです。一体神器は何セットあったのでしょう。
さらに言うと、後醍醐はこの5年前に鎌倉幕府に捕らわれた際、光厳天皇に三種の神器を引き渡したことがありました。
一体、後醍醐天皇が持っていた三種の神器は何セットあったのか、じっくり考えてみることにしましょう。
