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日本人の物語00159【古墳】用明天皇崩御

 用明天皇2(586)年。穴穂部皇子は、蘇我馬子と物部守屋の前で
「三輪逆は不遜な奴だ。成敗しなければならない」
とこぼしました。どう考えても大義のない逆恨みなのですが、守屋はこれに賛成します。一方、馬子は応じませんでした。
 どうやらこの頃、蘇我馬子は炊屋姫と良好な関係を持っていた一方、物部守屋は穴穂部皇子にすり寄っていたようです。
 用明天皇を担ぎ上げて現状を維持しようとする炊屋姫と蘇我馬子に対し、用明天皇亡き後の皇位を狙う穴穂部皇子は現状打破を狙っており、物部守屋を味方につけたというわけです。
 この穴穂部皇子の命を受け、物部守屋が三輪逆を殺害してしまいます。
 こんな重大な事件が起きたにもかかわらず、記録を見る限り、穴穂部皇子も物部守屋も何らの咎めを受けていません。権力が伯仲しており、罰することができなかったのでしょう。
 同年4月2日。用明天皇が天然痘にかかってしまいました。天皇が2代連続で罹患するとは、余程の流行だったのでしょう。
 精神的に弱って来た用明天皇は、
「仏教を信仰しようと思う」
と言い始めました。これには蘇我馬子は大変喜び、一方物部守屋と中臣勝海はひどく悔しがりました。恐らくはこの影響により、用明天皇の子である厩戸皇子(うまやどのみこ:574~622)も仏教にはまり込んでいくわけですね。(なお、ご存じでしょうが、厩戸皇子とは聖徳太子のことです。)
 用明天皇が死の病である天然痘に罹患してしまったことで、政局はにわかに混乱し始めました。天皇が崩御したら、一体誰が皇位を継ぐことになるのでしょうか。
 用明天皇の子である厩戸皇子はまだ12歳。即位できる年齢ではありません。(子供が天皇に即位するようになるのはもっと後の時代のことです)
 次代の天皇候補とされる人物は、このとき4人いました。
・穴穂部皇子:欽明の子
・泊瀬部皇子(はつせべのみこ:後の崇峻天皇:553~592):欽明の子
・彦人皇子(ひこひとのみこ):敏達の子
・竹田皇子(たけだのみこ):敏達の子
 物部守屋と中臣勝海は、穴穂部皇子を皇位につけるために彦人皇子と竹田皇子を呪詛し始めました。ところが、中臣勝海は状況が不利とみるや、逆に彦人皇子にすり寄ろうとし、彦人皇子の忠臣であった迹見赤檮(とみのいちい)によって斬殺されたとあります。
 こうした混乱の中、同年4月9日、用明天皇が崩御しました。これを契機に、「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれる戦乱が巻き起こります。

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