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日本人の物語01305【室町/義持期】持氏による残党狩り

「一度しか登場しないような人物については、わざわざ名前を書かなくても良いのかも」と思うこともあるのですが、そのお墓がどこかにあって、読者さんが「身近にあるお墓はこんな人物のお墓だったのか」との感動が得られるかもしれない、と思うので、あえてマイナーな人物も載せております。

 義持は禅秀の乱に加担した諸大名をできるだけお咎めなしで終わらせようとしたのですが、義嗣とその側近にだけは厳しい態度で臨みました。
 応永25(1418)年2月13日には、義嗣側近の日野持光が加賀で誅殺されました。この日野持光は、義満正室である裏松康子の弟であったため、これ以降康子と義持はひどく険悪になったようです。そもそも康子は子を産まなかったため、康子と義持は義理の母子関係であり、元々あまり良い関係ではなかったかもしれません。
 さらに2月30日(当時は太陰暦なので2月でも30日があり得ます)、同じく義嗣側近の山科教高が加賀で誅殺されました。教高は元々は義持の側近であり、義嗣に仕えるよう言い含めて送り出された人物ですが、義嗣に心底から仕えた結果、このような悲劇になったのでしょう。
 同じ頃、将軍義持と鎌倉公方持氏の関係もどんどん悪化していきました。
 甲斐守護職に幕府方が武田信元、持氏方が逸見有直を充てようとして揉めた話は既に述べました。最終的に持氏が折れて、武田信元の甲斐守護就任を渋々認めたのですが、いざ信元が甲斐に下向しようとすると、地元の国人たちが一揆を結んで信元を攻撃してきたのです。恐らく持氏が裏で糸を引いているのでしょう。
 4月28日には、持氏は禅秀残党の岩松氏を討つべく、扇谷上杉持定(おうぎがやつうえすぎもちさだ:1402~1419)を上野国に派遣しました。
 さらに5月10日に持氏は、これまた禅秀残党とされる桃井宣義(もものいのぶよし:?~1423)・小栗満重(おぐりみつしげ:?~1423)が立て籠もる小栗城(茨城県筑西市)を攻撃するよう長沼義秀に命じました。これは6月13日には鎮圧されることとなります。
 そして5月26日には、禅秀に従った上総本一揆(かずさのほんいっき)を討伐するよう一色左近大夫将監(いっしきさこんたいふしょうげん)に命令しました。上総本一揆の面々は平三城(へいさんじょう:千葉県市原市)に集結して対抗しましたが、5月28日には陥落しました。
 一方、義持はというと、6月6日に「禅秀の乱に山名時熙・土岐康政(ときやすまさ:?~1418)・畠山満則(はたけやまみつのり)が関わっていた」として、山名時熙を出仕停止(後に恩赦)、土岐康政の子・持頼(もちより:?~1440)を伊勢守護解任の上で所領没収としました。畠山満則は処罰を免れました。
 このように、持氏は禅秀残党を一人残らず討つつもりで動いている一方で、義持の方は武力討伐ではなく罷免や財産刑で対応し、場合によっては免罪しています。
 持氏は6月13日に義量の元服を祝う使節を幕府に派遣するなど、幕府との関係悪化を防ごうと努力していますが、今後の都鄙関係(幕府と鎌倉府の関係)は果たしてどうなるのでしょうか。

千葉県(上総・安房)はいまいち整備された史跡が少ないようで、見応えのある城跡も少ないみたいです。なぜなんでしょう。

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