日本人の物語00436【平安後期】殿下乗合事件
さて、嘉応2(1170)年には、平家の専横ぶりを示す事件がありました。
7月3日。平重盛の次男・資盛(すけもり:1161〜1185)が、摂政・松殿基房の車と行き違った際、下馬の礼をせずに通り過ぎてしまったのです。基房の郎党たちは怒って、資盛の車を破壊し始めました。
これを聞いた清盛は、かわいい孫を辱められたとして基房に激怒します。
10月21日。時折りしも、高倉天皇の元服定の儀式が行われました。基房が行列を引き連れて参内するわけですから、報復のチャンスです。清盛は長男・重盛の制止を振り切ってこの基房の行列を襲撃するよう命じ、4人の従者が髻(もとどり)を切られてしまうという屈辱を受けることとなりました。
これを「殿下乗合事件(てんがのりあいじけん)」といいます。
さて、平家物語を見ていくと、清盛がひどく独裁的に振る舞うのに対し、その長男・重盛は良識派で「平家の良心」といった扱いを受けています。この殿下乗合事件でも、基房襲撃は清盛の悪行と位置付けられ、重盛がそれを止めようとしていたというのです。
しかし、同時代人の日記によると、どうも話はあべこべなようです。「重盛が我が子かわいさのあまりに報復を企図して、清盛の制止を聞かずに報復した」というのが真実だというのです。清盛を悪役にしないと話が盛り上がらないので、後世そのように創作されてしまったのですね。
してみると、平家物語は様々なところで真実を隠蔽し、清盛が上手く悪役となるように改作されているわけです。清盛がかわいそうに思えてきますが、もはや何が真実か見極めるのも困難なので、本稿ではある程度平家物語に沿って歴史のストーリーを進めていきたいと思います。あまりに史実と異なるところがあれば、その都度、その旨を注釈していくこととします。
翌承安元(1171)年には、清盛が更に権勢を振るうきっかけとなる出来事がありました。清盛と時子の間に産まれた徳子(とくこ:1155~1214)が高倉天皇に入内したのです。徳子は後に「建礼門院(けんれいもんいん)」の院号を宣下され、「建礼門院徳子」と称される女性です。
徳子は、翌承安2(1172)年2月10日には中宮となります。娘を天皇に入内させ、中宮や皇后にするというのは、藤原摂関家がよく取ってきた戦略でしたが、清盛はその真似をしたのですね。
