日本人の物語01262【室町/義満期】大塔合戦
戦国時代の信濃守護・小笠原家というと、武田信玄を主人公にしたドラマや小説の中で「全く力がなく国人たちに舐められている人物」という雰囲気で登場しますね。その原因は室町前期の小笠原長秀にあったようです。
応永7(1400)年9月。信濃で幕府の権威を大きく揺るがす事件が発生しました。信濃守護・小笠原長秀(おがさわらながひで:1366~1424)と北信濃の国人・村上満信(むらかみみつのぶ)が四宮河原(長野県長野市:以下ここで登場する地名は全て長野市内)で衝突し、あろうことか小笠原が大敗したのです。その詳細について述べていきましょう。
小笠原長秀は、何度か登場した信濃守護・小笠原貞宗の曽孫です。長秀は応永6(1399)年に信濃守護に任命され、翌応永7(1400)年7月3日、京を出立して領国に向かいました。
7月21日。長秀は善光寺に一族郎党200騎を従えて入場し、信濃の国人領主たちを招集して対面しました。このときの長秀の態度はひどく高圧的だったといいます。
さらに長秀は、川中島で年貢の徴収を開始しました。川中島は元々、護良親王の側近として活躍していた村上義光(00770回参照)の子孫が南朝方から「信濃惣大将軍」に任命されて領有していた経緯があったことから、ただでさえ守護に反感を持っていた国人領主たちの憤りはすさまじく、長秀への反逆を決めて「大文字一揆」を結成しました。
長秀への反逆に参加したのは村上満信のほか、仁科氏・海野氏・根津氏・滋野氏・高梨氏・井上氏・島津氏といった面々で、国人衆のほとんどを占めていました。さらに信濃で高い権威を持つ諏訪大社までもが国人衆に味方しました。長秀に加勢したのは前々から小笠原氏の右腕として活動していた市河氏くらいです。
小笠原勢約4千に対し、国人衆は約1万の兵力です。長秀は当初は横田城に立て籠もっていましたが、9月24日に四宮河原の戦いに敗れ、塩崎城へ敗走しました。この脱出行の途中で敵に発見され塩崎城まで辿り着けなかった小笠原家臣・坂西長国(ばんざいながくに:?~1400)以下の兵は、近くにあった大塔の古城に逃げ込みましたが、国人衆に囲まれて食糧がなくなり、馬を食べるほどに窮乏した挙句、全員が討ち死にしました。
長秀が逃げ込んだ塩崎城もまた国人衆の攻撃を受け、窮地に立たされました。とはいえ、守護を殺害したとなると国人衆もただでは済まないため、長秀を殺すまで攻撃を続けるかどうか一同は迷っていました。
そこに、守護代の大井光矩(おおいみつのり:1337?~1416)が仲介に入りました。両者は停戦し、長秀は命からがら京へと逃げ帰りました。
この不手際により小笠原長秀は応永8(1401)年に信濃守護を罷免され、信濃は幕府直轄領となりました。当面は幕府の代官として細川慈忠(ほそかわしげただ)が派遣されましたが、だいぶ後の応永32(1425)年に長秀の弟・小笠原政康(おがさわらまさやす:1376~1442)が久しぶりに信濃守護に任命されました。
しかし信濃国における守護の地位は、著しく低下していました。この後、戦国時代に武田信玄が平定するまで信濃国は守護大名の権限不在の国人衆が割拠する国となったのです。
