日本人の物語01388【室町/義教期】嘉吉の乱 追討の綸旨
公家は武士と違って詳細な日記を残してくれているケースが多く、非常に助かります。
嘉吉元(1441)年7月30日。幕府の意を受けた坊城俊秀(ぼうじょうとしひで:1423~1465)は、追討の綸旨の文面を相談するため万里小路時房の元へ赴きました。時房は
「30日は大赤口(軍事を忌むべき日)なので明日にしてほしい」
と断りますが、坊城が引き下がらないのでやむなく検討が始まりました。
二人で相談して出来上がった案を、時房は大外記(だいげき:文書作成を担当する宮中の役職)の舟橋業忠(ふなはしなりただ)に持ち込んで添削を依頼しましたが、業忠は病と称して面会を拒みます。恐らく大赤口のせいでしょう。諦めない時房は強引に業忠を訪問し、その日のうちに添削させました。先程まで拒んでいた側が今度は強引に説得する側に回るとは面白いですね。
しかし結果的には、時房・業忠両者の添削は一切不要でした。というのも、8月1日に坊城俊秀が後花園天皇に決裁に赴いたところ、天皇はおよそ原型を留めないほどに添削、というよりも書き直しを行ったのです。
決裁前は
「播磨国凶徒の事、忽ち人倫の紀綱を乱し、なほ梟悪の結構に及ぶ」
で始まる比較的無難な案で、播磨国の凶徒が非倫理的な悪事を働いているので征伐せよとだけ述べている短いものでした。赤松という名すらありません。
一方、後花園天皇が自ら執筆した綸旨は、
「満祐法師ならびに教康、陰謀を私宅に構へ、忽ち人倫の紀綱を乱し、朝命を播州にふせぎ、天吏の干戈を相招く。(中略)忠を国に尽くし孝を家に致すは、唯この時にあり。敢へて日をめぐらすなかれ。兼ねてまた彼と合力の輩、必ず同罪の科に処せらるべし」
というもので、原案の2倍ほどの長さです。赤松満祐・教康を名指しで特定し、朝廷の命令が播磨国に行き届かないよう邪魔していると記し、後半では天皇に忠義を尽くすよう命じるとともに赤松に味方したものは同罪になるとまで述べています。
細川持之は天皇の権威を利用しようとし、公家たちはそれを嫌がっていましたが、後花園天皇は逆に幕府の作戦に乗ることで存在感を発揮しようと努めています。天皇もまた、管領と同様にしたたかだったのかもしれません。
さて、赤松討伐軍は京を出発したものの、戦闘開始にはまだ間があります。その間に、恩赦によって表面化した畠山家の内紛が先に起こります。
8月3日。かつて義教に追放されていた畠山持国が上洛して来ました。家臣の遊佐国政・斎藤祐定はそれを阻止しようとしますが、持国軍に蹴散らされました。
こうして持国は実力で家督を勝ち取りました。これ以降、畠山持国は幕政を主導する立場にまで上り詰めることになります。
畠山持国は法名(出家した僧としての名)を「徳本」といい、大河ドラマ『花の乱』では「徳本入道」として登場しています。
