日本人の物語01519【室町/東国/享徳の乱】千葉家の内紛
千葉家はかなりの名門ですが、この内紛のせいでだいぶ勢いを失ってしまいます。
享徳の乱勃発から約2年間の成氏VS上杉一族の戦いを見てきましたが、実はこの戦いに関連して、千葉家が二派に分裂して内戦を起こしていました。少し時間を戻して千葉家について見ていきたいと思います。
この頃、千葉家の当主は千葉胤直でした。胤直は永享の乱において持氏を裏切り幕府方についた人物として登場していましたね。今回も当然ながら、上杉方につくことを表明しました。
千葉家には、
・胤直の子・胤宣(たねのぶ:1445~1455)
・胤直の弟・胤賢(たねかた:?~1455)
もおり、二人とも当主たる胤直の判断を支持していました。
ところがこれに反発したのが胤直の叔父に当たる馬加康胤(まくわりやすたね:1374?~1456)と、その子の胤持(たねもち:1434?~1456)でした。馬加氏は下総千葉郡馬加村を拠点とする千葉家の庶流で、「馬加」は現在の幕張(まくはり:千葉市美浜区)を指します。その馬加一族が成氏支持に回ってしまったのです。
成氏VS上杉の戦闘が勃発すると、千葉家内の対立もまた武力衝突に発展しました。
享徳4(1455)年3月、馬加康胤・胤持父子が執事の原胤房(はらたねふさ:?~1471)とともに、本家の亥鼻城(いのはなじょう:千葉市中央区)を襲撃してきました。奇襲を受けた本家の面々はなすすべもなく逃亡し、
・胤直・胤宣父子は家臣の円城寺妙城(えんじょうじみょうじょう:?~1455)を頼って多古城(千葉県多古町)に
・胤賢は島城(千葉県多古町)に
それぞれ敗走しました。
馬加方の快進撃は続きます。8月15日に馬加康胤は多古城と島城の両方を陥落させました。多古城の戦いでは
・胤直は自害
・胤宣と円城寺妙城は戦死
し、島城の戦いでも胤賢が自害に追い込まれてしまいます。
千葉家の本家が滅びたため、馬加康胤は「千葉康胤」と名乗ってそのまま家督を乗っ取ってしまいました。
幕張メッセが「馬加メッセ」だったら何かダサいですね。
