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日本人の物語00343【平安中期】伊周死す

 寛弘5(1008)年。入内から9年経って彰子がようやく妊娠し、9月11日に敦成親王(あつひらしんのう:後の後一条天皇:1008~1036)を出産しました。道長にとっては初孫ということになります。
 道長は、この初孫がかわいくて仕方がなかったようで、『紫式部日記』に道長のかわいがりようが描かれています。ある時、敦成親王が道長におしっこをひっかけてしまいますが、道長は直衣の紐をといて脱ぎ、ニコニコしながらそれを火にあぶって乾かし、
「ああ、若宮のおしっこに濡れるのもいいものだなあ」
などと喜んでいたというのです。
 さて、道長にとっては、早く孫に即位してほしいわけですから、一条天皇が在位し続ける必要がなくなったことを意味します。
 寛弘6(1009)年11月25日。彰子が2人目を出産しました。敦良親王(あつよししんのう:後の後朱雀天皇:1009~1045)です。
 同年。円能(えんのう)という僧が、道長・彰子・敦成親王を呪詛したとして逮捕されました。尋問の結果、藤原伊周政権を樹立しようとしたのが動機と判明します。
 そういえば後世、
「伊周派の陰陽師・芦屋道満(あしやどうまん)が道長を呪詛し、道長派の陰陽師・安倍晴明がそれを阻止する」
といった物語が作られ、近年映画化までされたのですが、この時代、呪詛によって目的を達成しようという人たちが実在したのですね。
 寛弘7(1010)年が明けたころ、藤原道長は娘・妍子(きよこ:994~1027)を居貞親王の女御として入内させます。道長としては、一条系と三条系の両方に娘を嫁がせ、どちらが皇統を継いでも良いように図ったものとみられます。
 同じ頃、道長にとって最大のライバルであった男が、世を去ろうとしていました。藤原伊周が病に倒れたのです。伊周の長男・道雅(みちまさ:992~1054)が祈祷師を呼ぼうとしますが、みんな道長に遠慮して伊周宅に出向こうとしません。道雅が道長に要請することにより、ようやく祈祷師が派遣されました。道長自身は凋落した伊周に更に鞭打つつもりはなかったのですね。
 1月28日に伊周は死去しました。道雅への遺言は
「誰かの従者になるくらいなら出家してしまえ」
というものでした。実に伊周らしい最期です。
 さて、藤原道雅はその後歌人として活躍し、
「今はただ 思ひたへなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな」
が百人一首に収録されています。

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