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日本人の物語00208【奈良】藤原不比等の死

 霊亀2(716)年。藤原光明子が皇太子・首皇子の妃となりました。
 光明子とは、藤原不比等と橘三千代の間に産まれた子でしたね。不比等としては、娘を皇太子に嫁がせ、娘を通して天皇への影響力を保持しようとしたのでしょう。
 その不比等政権は、養老元(717)年に遣唐留学生として、
・吉備真備(きびのまきび:695~775)
・玄昉(げんぼう:?~746)
・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ:698~770)
らを唐へ送り出しました。建国されてから百年余りを経過した唐は安定期に入り、世界帝国としてその名を轟かせていましたから、その唐から最新の技術を輸入しようと考えたのでしょう。
 遣唐留学生の3人のうち、吉備真備と玄昉の2人は天平7(735)年に帰国しますが、阿倍仲麻呂の船は南方に漂流し、帰国できませんでした。仲麻呂は再度帰国を願い出ますが、唐の高官に気に入られたため帰国を許されず、悲観して
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
という有名な歌を詠みました。
 この歌は百人一首の中でも特に有名なものですね。結局、仲麻呂は二度と日本の土を踏むことなく唐で死去してしまいます。
 養老2(718)年。不比等は養老律令を完成させました。大宝律令に続く法令です。しかし施行されたのは天平宝字元(757)年のことでした。制定から施行までかくも長い空白があるのはどういうことなのでしょう。
 おそらく、実際には養老2(718)年時点では完成していなかったのでしょう。不比等の業績を大きく見せるための虚偽ではないでしょうか。そうだとすれば、このような年号を暗記させられる受験生がかわいそうに思えますね。
 その不比等は、養老4(720)年に死去し、最高権力者の座が空白となりました。その座を継承し得る候補者として、まずは不比等の4人の子が考えられます。
・長男: 武智麻呂(むちまろ:680~737)
・次男: 房前(ふささき:681~737)
・三男: 宇合(うまかい:694~737)
・四男: 麻呂(まろ:695~737)
 しかし、これら四子はまだ若く、長屋王の方が公卿として先任でした。
 不比等の死後、長屋王が政界の指導者となっていきます。しかし、それが藤原氏による追い落とし工作の契機となっていくのです。

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