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日本人の物語01390【室町/義教期】嘉吉の乱 赤松滅亡

歴史の本ではよく「滅亡」という言葉が使われますが、全員が死んだわけではなく分家が生き残っているケースが多いです。一体「滅亡」の定義って何なんでしょうね。

 嘉吉元(1441)年9月10日。山名軍が城山城に総攻撃をかけ、遂に赤松勢は総崩れとなって城は落城しました。赤松一族の多くは自害したとの報告が入ったものの、実際には自害したのは満祐だけで、則繁・教康の二人は密かに城を脱出していました。満祐の首は9月17日に都に届けられ、四条河原でさらされることとなりました。
 もう一人の主犯である赤松義雅は生け捕られ、自害させられました。ただし義雅は実は将軍暗殺には関わっておらず、満祐の弟であったために犯人一味とみなされてしまったとの説もあり、そうだとすればひどく気の毒な話です。
 こうして嘉吉の乱は終結しました。赤松討伐後の論功行賞は次のとおりです。
・山名持豊に播磨守護(明石、美嚢、賀東除く)
・山名教之に備前守護
・山名教清(やまなのりきよ)に美作守護
・細川持春に摂津中島郡
・赤松満政に播磨東三郡(明石、美嚢、賀東のみ)
 最も得をしたのは山名持豊で、これで山名一族が9ヶ国を統治することとなります。かつて「六分の一殿」と呼ばれた頃に匹敵する有力守護となりました。
 赤松本家が滅んだ代わりに分家筋の赤松貞村・満政は繁栄しそうなものなのに、なぜここに貞村の名前がないのでしょう。そもそも満祐が義教を暗殺した原因は、播磨守護を貞村に取られそうになったためとの説もあったほどでした。
 『建内記』によると、その赤松貞村は、なんと9月24日急死したといいます。原因は落馬か夜討ちか分からないとされ、何とも怪しい話です。義教が死去したため、その義教のお気に入りは失脚したということでしょうか。
 その他の残党がどうなったかも見ておきましょう。伊勢国司・北畠教具を頼るつもりで多気城(三重県多気町)に逃れていた赤松教康は、9月28日に教具に殺害されました。北畠教具は恩賞として美作国大原荘(岡山県美作市)を与えられました。かつて南朝の主力だったはずの北畠氏は、もうすっかり幕府に籠絡されています。
 ただ、赤松本家は完全に滅亡したわけではありませんでした。自害させられた義雅の子・千代丸は数え9歳でしたが、赤松満政は本家が断絶することを惜しんで密かに千代丸を室津(兵庫県たつの市)に隠し、その後近江の成願寺(滋賀県東近江市)へと送りました。この千代丸は後に時勝(ときかつ:1433~1455)と名乗り22歳で没しますが、その子が赤松家を再興することとなる有名な政則(まさのり:1455~1496)です。政則は卓越した手腕で赤松家を建て直し、一族の仇である山名持豊(宗全)と応仁の乱で激しく戦うこととなるのですが、それはまだ先の話です。

山名と赤松の因縁はかなり長く続きます。

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