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日本人の物語01045【南北朝中期】武蔵野合戦 尊氏の幸運

このあたり、太平記の記述と史実に大きなズレがあり、分かりにくいです。

 いよいよ戦が始まる前夜、石塔義房は息子の頼房を呼びつけ、次のように述べました。
「私は薩埵山の合戦に負けて、今は降参した身であるため、仁木・細川らに押さえつけられて人並みの所領も持てずにいる。そなたもさぞ無念に思っているだろう。明日の合戦で、三浦殿と助け合って、合戦の最中に将軍(尊氏)を討って家運を開こうと思っている。私の動きに従うがよい」
 ところが頼房は大いに機嫌を損ねて
「武士の道は二心があることを恥とします。私は将軍に深く頼りにされている身ですので、後ろから矢を射て名誉を失うようなことは、とてもできません。兄弟や父子が相分かれて戦うことは昔からあることです。私は三浦の陰謀を将軍に申し上げようと思います。父子の恩義は既に途絶えたので、この世でお会いするのはこれが最後とお思いください」
と述べ、そのまま尊氏の陣営に行ってしまいました。
 父の義房は非常にがっかりして、急いで三浦高通のところに行って、
「父が子を思うようには、子は父を思わないようだ。息子にあらかじめ知らせずにいると、敵中に残って討たれてしまうかもしれないと思い、事前に策を話して聞かせたのに、将軍に言うといって出て行ってしまった。さあ、早く出発し、新田殿の元へと向かおう」
 つまり、尊氏軍に紛れ込む作戦は既に失敗したわけであるから、さっさと新田軍の中に入てしまおうというわけです。
 これを聞いた三浦高通はひどく恐ろしくなって、急いで尊氏方の軍から逃亡していきました。太平記は
「将軍のご運が尽きていないことの表れであろう」
と述べています。尊氏はすんでのところで命を助けられたのです。
 さて、太平記では「鎌倉が陥落すると士気が下がる」といって鎌倉を死守すると言っていた尊氏ですが、史実では正平7(1352)年閏2月17日、鎌倉から避難して武蔵狩野川城(横浜市神奈川区の権現山とみられる)に立て籠もったようです。その結果、翌18日にはガラ空きになった鎌倉を新田義興・北条時行が襲い、いとも簡単に制圧することとなりました。往々にして、物語では威勢の良い作戦行動に出る一方、史実では手堅い作戦を用いるものです。現実はつまらないものかもしれません。
 その頃、信濃国にいた宗良親王の一行も、碓氷峠を越えて新田軍に加わりました。新田軍はまさに破竹の勢いです。

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