日本人の物語00448【平安末期】以仁王、園城寺へ逃れる
熊野那智大社との戦いに敗れ、逃げ帰った湛増の軍に、佐野法橋(さのほっきょう)という人物がいました。湛増の甥に当たります。
この佐野法橋が、戦いの状況を手紙で福原へと書き送りました。これを受け取ったことで、平家は初めて反乱の始まりを知ったのです。
平家は直ちに以仁王を追捕することを決めました。清盛は家臣らを集めて、
「以仁王を捕らえ、土佐にお流しするのだ」
と命じました。治承4(1180)年5月21日、平宗盛(たいらのむねもり:1147~1185)と源頼政が追捕使に任命されました。
さて、ここで平家最後の棟梁である平宗盛が初登場しました。清盛が引退し、長男・重盛が41歳で亡くなり、次男・基盛(もともり:1139~1162)は24歳で亡くなっていたため、平家の家督は今や三男の宗盛が継承していました。
といっても、宗盛は清盛の意向にいちいち追随するだけの従属的な存在で、さほど評価されている人物ではありません。つまり、名目上引退したとされる清盛が、実質的には引き続き全てを取り仕切っていたということです。
一方、源頼政は平治の乱で源義朝を裏切り平家方についた人物でしたね。
ところが、この人選は失敗でした。頼政は直ちに以仁王に手紙を書き送り、平家打倒計画が漏れたことを知らせてしまったのです。つまり頼政は平家を裏切り源氏方についたというわけです。知らせを受けて身の危険を感じた以仁王は、女装して館を脱出し、園城寺(滋賀県大津市)へと向かいます。
以仁王たちが三条高倉通りを西へ向かっていると、広い溝がありました。女装した以仁王は、それをやすやすと飛び越します。通行人たちは
「ずいぶんおてんばな娘だな」
と不審に思ったといいます。
二条川原までやって来たところで、以仁王に随行していた長谷部信連(はせべのぶつら:?~1218)は、
「臆病にも逃げたなどと言われては情けないので、私は御所で平家を待ち受けたいと思います」
と言って、なんと以仁王の館に戻りたいと言い出しました。
信連が館に戻ったところへ、平家方が送り込んだ刺客たちがやって来ました。源平第二の合戦がここに始まろうとしています。
