日本人の物語01235【南北朝最末期】南北朝時代をどう見るか
読売新聞が「女系天皇容認も視野に入れて議論すべき」と主張したことが話題ですが、私としては「男系という文化を守り続けてほしいなあ」と思っています。その理由を上手く容認派の方を説得できるように説明するのは難しいのですが、神武天皇以来の歴代天皇の事績を全て追いかけてくると、自然とそういう考えに行き着いてしまうのです。
南北朝時代を7章に分けて書いてきたわけですが、ここで「戦前の皇国史観の中で南北朝時代がいかに語られてきたか」も紹介したいと思います。
既に述べたとおり、大日本帝国時代には南朝が正統とされ、足利尊氏は極悪人とみなされていました。「南北朝」という呼称は南朝と北朝を同等とみなすことになるため、かつては「吉野時代」という呼び名で教えられていたのです。
大日本帝国時代にいわゆる「皇国史観」を形成する上で大きな役割を果たした平泉澄という歴史学者がいます。その平泉が子供向けに著した『物語日本史』では、「吉野時代」は4チャプター38ページも割いているのに、「室町時代」は僅か1チャプター11ページしか割かれていません。その理由について、平泉はこう説明しています。
「吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の間隙を呼び起すのでありました。これに対して室町の百八十二年は、紛乱の連続であり、その紛乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした。(中略)それ故に吉野時代がわずか五十七年の短期間であるにかかわらず、我が国の歴史に貢献するところ、極めて重大であり、記述すべきことの豊富でありますのは、一に吉野の君臣の忠烈、日月と光を争ったためであって、足利主従はこれに対して逆作用をしたに過ぎないのであります。従ってその吉野の忠烈さびしく消えて、世の中はただ足利の一色に塗られた室町時代は、たとえ時間の上では百八十二年、吉野時代の三倍を越えたとしても、これといってお話すべき価値あるものは、ないのです」
何ともひどい物言いですが、本稿を読んで来られた皆さんなら十分に反論できるのではないでしょうか。
まず南北朝時代とは、持明院統と大覚寺統が交互に即位する取り決めがなされていたにもかかわらず、後醍醐天皇が自らの子孫に皇位を独占させたいとの私利私欲を求めたことで始まりました。自分が皇位に居続けるためには味方の新田義貞や我が子をも平気で騙しており(00890回参照)、こうした威徳に欠ける態度は南朝内でも堀口貞満の大演説(00888回参照)や北畠顕家上奏文(00924回参照)で批判されているところです。おまけに南朝正統論の根拠たる「本物の三種の神器は後醍醐天皇が持っていた」という話も、出雲大社に伝わる古文書により虚偽である可能性が高まっています(00812回参照)。
また、北朝方が理念なき内紛に揺れていたことは事実ですが、南朝方もまた楠木正儀、橋本正督、興良親王らの裏切りが発生しており、さほどまとまっていたわけではありません。
さらに室町時代は能、狂言、謡曲、日本建築(書院造)、日本庭園、華道、茶道といったすばらしい日本文化を生んだ時代であり、見るべきものは多数あります。
平泉澄のように、歴史を道徳教育の手段として用いようとすると目が曇ってしまうものです。この後の室町時代もできるだけニュートラルに綴っていきたいと思います。
