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日本人の物語01221【南北朝最末期】土岐康行の乱 富士山見物

編年体で書こうとすると、どうしても話があちこちに飛んでしまいます。

 関東で小田孝朝の乱が継続する中、美濃でも小競り合いが始まります。
 きっかけは、元中4/嘉慶元(1387)年12月25日、土岐頼康が美濃小島(岐阜県揖斐川町)で死去したことでした。頼康といえば斯波派に属し、細川頼之を敵視していた人物でしたね。
 頼康は男子に恵まれなかったため、甥の康行(やすゆき:?~1404)を養子に迎えていました。つまり本来なら、頼康が持っていた美濃・伊勢・尾張3ヶ国の守護職は康行が受け継ぐはずでした。
 ところが斯波派の勢力を削ぎ落したい義満は、康行に美濃・伊勢の継承のみを許し、尾張は康行の弟である満貞(みつさだ)に与えました。明らかな康行への挑発です。
 元中5/嘉慶2(1388)年5月。守護となった土岐満貞が尾張に初入国しようとすると、康行の従弟の詮直(あきなお:?~1399)が黒田宿(愛知県一宮市)で満貞を迎え討ちました。詮直は康行の娘婿だったため、康行派に属していたのです。
 襲撃を予期していなかった満貞は敗れ、京に逃げ戻ります。将軍が任命した守護を追い返したわけですから、土岐康行・詮直は謀反人となりました。
 ところが、義満は土岐康行討伐を決定することもなく、そのまま1年ほど経過します。この間、8月17日に再び河内国平尾(大阪市大正区)で南朝方との合戦があり、楠木正儀の嫡男・正勝(まさかつ:1351~1400)の軍を山名氏清が破るなどの出来事がありましたが、義満にとって土岐討伐ができないほど忙しかったわけではありません。なぜかくも土岐の謀反は放置されたのでしょうか。
 想像するに、義満の土岐討伐を妨げるものとして、斯波派や鎌倉公方氏満の暗躍があったと思われます。特に氏満は隙あらば幕府を乗っ取ろうと画策し、小山や小田の領地を取り上げて力をつけていましたから、義満は鎌倉への警戒を怠るわけにいかなかったのでしょう。
 その証拠に、9月16日に義満は富士山見物に赴くと言って多くの行列を従え、京を出発しました。一週間後に駿河に入った義満は、了俊の甥に当たる駿河守護・今川泰範(いまがわやすのり:1334?~1409?)の歓待を受け、富士山見物を楽しみました。
 もちろん目的は富士山見物ではなく、いつ裏切るか分からない鎌倉公方氏満に対する威嚇と牽制だったでしょう。いざとなればこれだけの大軍が東国にやってくるのだぞ、と脅しつけることで、氏満の反逆を防止する狙いがあったものと思われます。
 義満は鎌倉にここまで接近しておきながら、結局鎌倉には寄らずに帰洛しました。氏満にとっては実に不気味なデモンストレーションだったことでしょう。

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