日本人の物語00647【鎌倉中期】北条泰時の人柄 後世の評価*
北条泰時の人柄を示すエピソードはもう一つあります。
4代将軍頼経が、集まっていた御家人に対してこんなことを言いました。
「人の家の羽目板は、本来は内部の見苦しさを隠すためのものだが、泰時の家の羽目板は非常に粗末なもので、外から内部が見通せてしまうのだ」
頼経が泰時を貶めようと思って言ったのか、はたまた泰時の清貧さを評価して言ったのかは分かりませんが、いずれにせよこれを聞いた御家人たちは泰時を気遣って、
「ご用心のためにも、この機会に塀を作るべきと存じます。御家人の一人一人がそれぞれ一つずつ板をこさえれば、10日もかからずに塀を作れるでしょう。どうか我々にお命じ下さい」
と口々に泰時に言い立てました。
しかし泰時は
「それぞれの気持ちは実にありがたい。しかし、諸国から鎌倉にやって来た人夫たちは、この仕事に就くことで面倒な目に遭うことだろう。用心のためにと言うが、泰時の運が尽きたならば、たとえ鉄製の塀を作ったところで、とても助かるまい。羽目板はこのままでよいのだ」
と答え、これを断りました。御家人たちは泰時の答えに感銘を受けたといいます。
とにかく泰時の評価はすさまじく、悪く言う者がありません。
鎌倉中期の仏教説話集『沙石集』では、
「ありがたき聖人にて、万人の父母たりし人なり」
と褒めちぎっています。さらに、後世に南朝のイデオローグとして活躍した北畠親房も、その著書『神皇正統記』の中で、
「泰時、心正しく、政は素直にして、人を育み、物におごらず」
と記し、
「もし源平合戦の時代に頼朝の代わりに泰時のような者がいたならば、人民が苦しむことはなかっただろう」
とまで述べているのです。
実際、泰時は一切独裁的な振る舞いをせず、多くの政務を叔父・時房に相談し、決裁書類も泰時・時房の二人で署名をしました。ここから執権を補佐する「連署」という役職ができたといわれています。
泰時はさらに「評定衆」を新設し、政務の多くを有力御家人の合議制で進めていこうとしました。評定衆の中では三浦義村が最も力を持つこととなります。執権に権力が集中するのを避けたという点でも、泰時は穏健な為政者であったといえるでしょう。

