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日本人の物語00795【鎌倉末期】巨福呂坂/化粧坂の戦い*

 元弘3/正慶2(1333)年5月18日。いよいよ新田軍が鎌倉に入ろうとします。
 鎌倉は天然の要塞で、三方を山に囲まれ、一方は海ですから、入れるポイントは限られています。新田義貞は巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂(けわいざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)の3ヶ所から鎌倉に攻め入ろうと、軍勢を3つに分けました。これら3ヶ所はいずれも狭い切通しであり、大軍をもって攻めかかるのが難しい地形となっていました。
 まずは巨福呂坂の戦いから見ていきましょう。
 新田軍の中で巨福呂坂の攻略を担当したのは、義貞側近の堀口貞満(ほりぐちさだみつ:1297~1338)でした。一方、幕府方でここを防備したのは執権の赤橋守時です。
 赤橋守時は、妹の登子が足利高氏に嫁いでいたせいもあって、幕府内で裏切りを疑われていました。守時はそれを大いなる恥辱と考え、この戦いに死の覚悟で挑んでいたのです。
 巨福呂坂とは現在の建長寺付近の坂のことで、JR北鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かう峠道の中にあります。赤橋守時は当初はこの峠道で堀口軍と戦っていましたが、徐々に相手を圧倒して押し返し、坂を北側に大きく下った洲崎というところにまで進出しました。しかしここで力尽き、最後は大将たる守時自ら敵陣深く斬り込んで行き、壮絶な討死を遂げたといいます。
 守時が戦死したことで堀口軍は勢い付き、再び巨福呂坂の峠の山ノ内という場所まで押し戻してきました。ここで堀口軍を迎え討ったのが、金沢貞将です。堀口軍はなかなか坂を進むことができないまま、一進一退の攻防が続くことになります。
 金沢貞将自身は深手を負って撤退しますが、ここに残った幕府軍がしぶとく抵抗を続け、堀口軍は結局この巨福呂坂を最後まで落とすことができませんでした。
 続いて化粧坂の戦いを見ていきましょう。巨福呂坂が鎌倉の北東の出入口だとすると、化粧坂は北西の出入口です。
 化粧坂の攻撃は、新田義貞自身とその弟の脇屋義助(わきやよしすけ:1305~1342)が担当していました。一方、幕府方は第13代執権を務めた普恩寺基時です。
 普恩寺基時の死闘もまた壮絶なものでした。基時はこの数日前に、息子の仲時ら432人が番場で自害したとの知らせを受け取ったばかりでした。息子の弔い合戦という意識もあったかもしれません。
 なかなか攻略できない中で、義貞のもとに極楽寺坂が苦戦中との報が入り、義貞は化粧坂を弟に任せて自らは極楽寺坂へと転身して行きました。

源氏山から見た化粧坂。ここを下ると化粧坂だそうだが、雨上がりだったので諦めた。かなり険しそう。2022年9月24日撮影。
化粧坂の説明板。2022年9月24日撮影。

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