日本人の物語01125【南北朝後期】神崎川の戦い 溺死者多数
太平記はずいぶん楠木びいきで、楠木正成・正行・正儀を褒めそやしています。でも章によっては正儀はこき下ろされているらしく、一貫性がありません。
威勢のいい吉田厳覚は、真っ先に神崎橋を渡っていきました。そこで敵に視察に行っていた者たちが帰ってきて、
「楠木はまだ見当たりません。和田の軍勢だけで500騎にも満たないようです」
との報告が入ってきたため、厳覚は
「なんだ。その程度の軍勢ならここで全滅させよう。楠木についてもおびきよせて殺せばいい」
と言って、馬を休ませながら敵が近づいてくるのをただただ待っていました。
ところが、楠木・和田らの作戦は厳覚の予想を上回っていました。たった今、厳覚は西から東へ神崎川を渡ったばかりなのに、
「楠木・和田の軍勢が西から攻めてきます!」
との報告が入ってきたのです。佐々木秀詮・氏詮兄弟は
「さては敵は後ろに回り込んでいたのだな」
と言って、急ぎ西へ引き返して神崎橋へと戻ります。
戻ってみると、楠木勢は矢を用意して待ち構えているところでした。橋の両側は田畑で馬の足も立たないところなので逃げ場がなく、敵の矢を防ぎようがありません。
さっきまで余裕を見せていた吉田厳覚は、敵を突っ切って神崎橋を渡り、西へ逃げていきました。このとき敵の追跡を振り切るために、厳覚の軍勢は橋板を引き落としてしまいます。
味方がまだ橋を渡り切っていないのに橋板を落としたため、南朝の楠木・和田勢のみならず北朝の佐々木勢までもが橋を渡れなくなりました。佐々木勢の兵たちは逃げようとして無理に壊れた橋を渡り、300騎が川に落ちてしまいました。
佐々木兄弟もまた神崎橋までやって来ましたが、そこで橋が落ちているのを見て逃亡を諦めます。やむなく敵の方に引き返して戦い、2人とも討ち死にしたのでした。
短時間の戦いでしたが、北朝方の死者は273人。そのうち敵に討たれて死んだ兵は僅かで、ほとんどは神崎川に流されての水死でした。吉田厳覚の身勝手な行動が味方を死に追いやったのです。
太平記には、
「楠木正儀は情けの深い武将だったので、川から引き揚げられた敵に小袖や薬を与えて京に帰してやった」
と書いてあるのですが、このエピソードは楠木正行の渡部橋でのエピソード(00974回参照)と全く同じですので、怪しいものだと思います。
