日本人の物語01043【南北朝中期】義詮の油断
私がこの連載を推敲する際は、とりあえず下書きした後、
①歴史的にそもそも正しいか確認
②前話・後話と流れがつながっているか確認
③主語・述語のつながりがおかしくないか、読みづらいところはないか確認
④初出の人名や地名について説明を付加
⑤年月日の表記、特に元号に誤りはないか確認
⑥漢字変換や送り仮名のミスがないか確認
⑦最後にもう一度、チャプター全体を読み直して違和感がないか確認
という形で7回読み直すことにしています。しかしだんだん時間が足りなくなってきたので、今後は3回くらいになるかも。
京の留守を預かる義詮は、尊氏から命じられたとおりに南朝との和睦を進めていたわけですが、気がかりなことが2点ありました。
1つ目は、正平7(1352)年閏2月6日に、信濃にいた南朝方の宗良親王が征夷大将軍に任じられたことです。後村上天皇の命によるものですが、これは即ち、尊氏が現役の征夷大将軍であることが否定された格好になります。
「幕府の存続は認めてください」
との条件で和睦交渉を行っている義詮にとって、この一件は不安要素となりました。
ちなみに信濃の宗良親王は、長らく京を離れているので都らしい振る舞いも忘れてしまい、ひたすら弓馬の道を磨いていたそうです。そこに征夷大将軍に任じるとの辞令をいただいたわけで、その複雑な気持ちを
「思ひきや 手もふれざりし 梓弓 おきふし我が身 なれむものとは」
(かつては手を触れることすらなかった弓に、寝ても覚めても離れないほど我が身に馴れるものとは)
と詠みました。
2つ目は、奥州から北畠顕信の軍勢がやって来て、後村上天皇に合流したことです。平和的に京に入ってくるならば、そんな大軍勢である必要はないわけで、
「もしや幕府軍と一戦交えるつもりでは……」
と不安に思うのは当然でしょう。
閏2月12日。義詮は側近の僧・円観を派遣して、南朝方に尋ねさせました。(ちなみに円観というのは、後醍醐天皇が最初に鎌倉幕府打倒計画を立てた際の参加者の一人ですが、建武の新政が失敗した後は北朝方に味方し、尊氏・義詮の側近となっていました。)
「私はかつて不忠の罪を犯しましたが、それを謝して帝のお許しをいただきました。帝に私の心をお汲みいただき、和睦と決したところですが、(南朝方の)和田や楠木らが合戦を企てていると聞いております。どういう事情でございましょうか」
後村上天皇は直々に円観と対面し、
「和睦と決したものの、天下の民はまだ不安を抱いている。一応は非常のための警戒として軍勢を引き連れているけれども、既に和睦している以上異変は起こらぬであろう」
と回答しました。この回答を聞いた義詮はすっかり油断してしまいます。
しかし義詮をお人好しと責めることはできないでしょう。まさか天皇自身が人を騙して奇襲を敢行するとは、誰も思わないはずです。
