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日本人の物語00919【南北朝最初期】鎌倉陥落

 延元2/建武4(1337)年12月。上杉憲顕(うえすぎのりあき:1306~1368)、桃井直常、高重茂(こうのしげもち)ら数十名が足利千寿王の前に集まりました。一同にとって、北畠顕家軍が鎌倉にやってくるのを迎えるのは約2年ぶりのことです(00847回参照)。
 一同が話し合いますが、
「利根川の合戦の後、味方は気力を失い、大半が逃げ去ってしまいました。敵は勢いに乗って強力になっています。今ここで戦っても勝つことは難しいでしょう。ここは一旦安房・上総(千葉県)に退いて、関東の軍勢がどちらに付くかを見て、戦いの成否をよく考えて戦うべきではないでしょうか」
などと延々議論しているばかりで、戦おうという意気込みは全くみられませんでした。
 このとき足利千寿王は僅か11歳でしたが、なんと諸将を前に次のように言い放ちます。
「一体これは何たる様か。戦をするときに敗北をかくも恐れるとは。仮にも私が東国の大将として鎌倉にいるにもかかわらず、敵が大軍だからといってここで一戦もせず退くのは、後世の非難を招くことだろう。たとえ味方が小勢であっても、敵が攻め寄せてきたならば、立ち向かって戦い、敵わなければ討ち死にしよう。もし逃れることができたならば、安房・上総へでも退いて、その後敵の後を追って上洛し、宇治・瀬田あたりで挟み撃ちにすれば敵を滅ぼすことができるではないか」
 いやはや、すごい11歳がいたものです。これを聞いた諸将は腹を決めて鎌倉で北畠軍を迎撃することと決めたといいます。前年1月2日の北畠軍来襲の際には足利軍は戦わずして逃げたわけですが、今回は遂に応戦することに決めたわけです。
 この千寿王の言葉は『太平記』が伝えるもので、恐らく史実ではないでしょう。そもそも『太平記』は千寿王が数え11歳だったと書いていますが、実際は数え7歳だったはずで、年齢だけを見ても矛盾があります。そして足利軍は千寿王を名目上の総大将に据えていたのでしょうが、実際に大将格として行動していたのは千寿王の次に格の高い斯波家長だったと思われます。その家長も17歳で若すぎるので、実際に指揮していたのは31歳の側近・上杉憲顕だったでしょう。
 12月28日。北畠顕家・新田義興・北条時行ら10万騎が鎌倉へと攻め寄せて来ました。
 これを迎え討つ鎌倉の足利勢は1万騎で防戦しますが、守りは破れ、敵が次々と入ってきます。杉本城(現・杉本寺)に立て籠もった足利軍が総崩れとなる中、斯波家長は自害し、上杉、桃井、高ら諸将は足利千寿王を連れて三浦半島へと逃れていきました。
 北畠顕家は、
「鎌倉を陥落させた今、長くここに留まる必要はない」
と、延元3/建武5(1338)年1月8日、鎌倉を出発し畿内へと向かいました。いよいよ南北朝の主戦場たる畿内に、南朝最大勢力である北畠顕家がやって来ることとなります。

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