日本人の物語01518【室町/東国/享徳の乱】成潤の関東下向
半年近く執筆作業をしておらず、だいぶ前に書いた貯金を切り崩しながらアップロードしています。そろそろ書き始めねば。
一進一退の攻防が繰り広げられる中、康正2/享徳5(1456)年4月4日、成氏は幕府に対して書状を送り、憲忠殺害について弁明しました。恐らく成氏は、父の直接の仇である上杉家(さらにその家宰である長尾家)に対しては恨みを持っていたものの、幕府を敵に回すつもりはなかったのでしょう。
書状の内容は次のとおりです。
「賞罰を明らかにするのは為政者の務めであり、罰を下したところ幕府からのお咎めを受けてしまいました。悲しいことです。たとえ根拠のない成敗だったとしても、臣下を主君よりも優遇するなどあり得ないことです。京に対して野心を抱くことなど全くないのに、多くの佞臣たちがあれこれ言い出したため、幕府から軍勢を差し向けられました。本当に恨めしく思います。(中略)とにかく使節を派遣いただき、関東の様子を目で見ていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします」
どうも開き直っている気がして、これでは幕府の受けは悪いのではないでしょうか。実際、幕府はこの文書を黙殺してしまい、和睦は成りませんでした。
それどころか幕府は、もはや成氏を切り捨てて新しい鎌倉公方候補を送り込もうとしていました。成氏の兄(一説には弟とも)で、勝長寿院の門主を務める成潤(せいじゅん)という僧がいたのですが、その成潤が4月27日に幕府の許可を得て京を出発し、関東に向かったのです。
「この成潤が成氏の代わりの鎌倉公方候補である」と示すはっきりした史料はありませんが、このタイミングで関東に下向させる目的としては、それしか考えられません。ただ、還俗させずに僧形のままで送り込むのは不思議な気もします。
それにしても、この期に及んでなおも足利持氏の遺児を選ぶ神経はどうかしています。歴代鎌倉公方は初代基氏を除いて全員が反逆又はその未遂事件を起こしており、もう別の血筋から選んだ方が良いと思われます。(ちなみに成潤は関東に到着後、早い段階で死去したらしく、幕府はやむなく次なる候補を送り込むこととなります。それが後の堀越公方です。)
成潤の東国下向は、成氏方に多少の動揺を与えただろうと思われますが、戦局に大きな影響はありませんでした。
9月17日には岡部原(埼玉県深谷市)で合戦があり、成氏方が上杉方に勝利しました。詳細は不明ですが、「数万人討ち死に」という風聞もあり、相当な激戦だったと思われます。このように、享徳の乱ではそれぞれの戦いの詳細が不明なケースが多いのです。
埼京線に岡部という駅がありますが、岡部原というのはその辺りでしょう。
