日本人の物語00605【鎌倉前期】親鸞と浄土真宗 肉食妻帯の禁
法然の次は、親鸞の生涯について見ていきましょう。
法然が浄土宗という新たな宗派を開いたと自覚していなかったのと同じく、親鸞もまた「浄土真宗」という宗派を開いたという意図はありませんでした。「浄土宗」「浄土真宗」とも後世に名付けられたものです。当時はこの二宗派は厳密には区別されておらず、「念仏宗」などと総称されていたようです。
親鸞は承安3(1173)年4月1日に日野(京都市伏見区)で産まれました。治承5(1181)年に青蓮院に入り、慈円のもとで得度します。
伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、数え9歳の親鸞が、
「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
(また明日が来ると思っていると思わぬあだになるかもしれない。夜中に嵐がやって来て死ぬかもしれないのに)
と詠んだといいます。9歳にしては出来過ぎた歌ですね。
出家後は比叡山で20年に渡って厳しい修行を積みますが、自力修行の限界を感じ、建仁元(1201)年春に下山し、六角堂(京都市中京区)に百日間籠もってひたすら祈祷に明け暮れました。すると95日目に突然聖徳太子が現れ、こんなことを言ったといいます。
「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となろう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう」
当時、僧侶には肉食と妻帯が禁じられていました。肉を食らうのは即ち殺生を肯定する行為であり、妻をめとることは煩悩に支配されることであるといわれていたのです。
ところが親鸞は、この聖徳太子の言葉によって肉食と妻帯を肯定してしまいます。我々人間は生物を食べなければ生きていけませんし、妻帯しなければ子を産めません。つまり肉食妻帯を禁じるといっても、それを遵守できるのは僧だけであり、一般人にまでこれを適用すると人類は滅んでしまいます。
親鸞は、それはおかしいと考えました。
「肉食妻帯の禁を守る僧だけが極楽往生できて、一般人は極楽往生できないことになるではないか。出家僧だけが助かればそれでよいという考えには賛同できない」
と主張したのです。
こうして親鸞は、恵信尼(えしんに:1182~1268)という妻を堂々と持ち始め、子ももうけて当時の人々を驚かせました。それは、既存の宗派から迫害を受けることも覚悟の上でのことでした。
ちなみに親鸞は明治時代には非実在説が有力視されていたのですが、大正時代に親鸞や恵信尼の直筆の書状が見つかったことで実在が明らかとなった経緯があります。鎌倉新仏教の旗手たる親鸞が架空の人物とされていた時期があったとは、驚きですね。
