日本人の物語01250【室町/義満期】義満、上皇と相撲に興じる
後光厳流が全盛期を迎えており、崇光流に属する崇光上皇・栄仁親王父子は実に哀れですが、実は今の天皇は崇光流なのです。なぜそうなったかは、だいぶ先(102代後花園天皇即位のところ)で解説することになります。
第四次京都合戦で崇光天皇が南朝方に捕らえられ、崇光・後光厳の兄弟どちらの系統が皇位を継承するかで内紛が起こった話は既に述べました。結局、後光厳が子の後円融、孫の後小松に皇位を継がせることに成功したわけですが、崇光上皇はまだまだ諦めず、義満の機嫌を取ることで弟の系統から皇位を取り戻そうと工作していました。
応永3(1396)年3月28日。当時61歳の崇光上皇は、伏見殿で義満と対面しました。このときの状況がいかに異様であったかが、同席していた一条経嗣の日記に記されています。
対面の際、まず崇光上皇が義満の注いだ盃を受けました。当時の慣習では目下の者が目上の者から盃を受け取るはずなので、崇光上皇は言わば義満より目下の立場であると自ら認めたことになります。さらに義満は戯れに崇光上皇と相撲を取りました。上皇を相手に相撲とは、あまりに不遜な態度です。
会見の後、見返りとして義満は上皇に金千貫を贈りました。一条経嗣の日記には
「酒一杯で千貫とは割の良い話だ」
などと上皇を揶揄する内容も記されています。
ところが近年の研究では、義満は不遜な行動を取ったのではなく、むしろ恐縮していたのではないかとの指摘もあります。相撲云々という記述は、崇光上皇が義満の盃を取ろうとしたので、義満が恐縮してそれを渡すまいとした結果、取っ組み合いのように見えたのを一条経嗣が面白おかしく「相撲に興じた」と記しただけではないかというのです。仮にそうだとしても、崇光上皇が皇位継承に際して自派に有利になるよう、必死になって義満の機嫌を取ろうと奮闘する姿は哀れです。
少し先の話をしますが、これだけ腐心して義満の機嫌を取った崇光上皇は報われないまま、応永5(1398)年1月13日に崩御しました。ちょうどこのとき、3日後に予定されていた踏歌節会を開催すべきか否かを朝廷が義満に相談したところ、義満は例年通り開催せよと命令しました。つまり歌ったり踊ったりする行事が優先されて崇光上皇の葬儀は先延ばしとなり、1月23日にようやく実施されたのです。その後、義満は崇光上皇の所領を召し上げて後小松天皇の所管に移してしまいます。
崩御から4ヶ月後の5月26日に崇光上皇の遺児・栄仁親王は出家しました。この出家については「相国(義満)の申沙汰なり」と記録されているので、義満の命令と思われます。つまり義満は崇光の子孫を天皇にする気は一切なく、あくまで後小松の系統に一元化しようとの考えだったのです。
栄仁親王は出家後、伏見で隠棲同然の日々を過ごし「伏見宮」と呼ばれました。失意の後半生を送った栄仁親王でしたが、まさかその後、自らの子孫が天皇位を独占することになるとは思いもしなかったでしょう。
