日本人の物語01467【室町/西国/大乱前夜】伊勢貞親登場
大河ドラマ『豊臣兄弟』が始まりましたね。戦国大河は正直見飽きた……と思っていたものの、初回が十分面白かったので見続けることになりそうです。
享徳元(1452)年9月1日。尾張守護代をめぐる攻防で当事者となっていた数え18歳の斯波義健が、落馬のため死去しました。これは父義郷に続いて(01369回参照)父子2代連続の落馬死であり、やや怪しい気もします。
義健に子はおらず、やむなく傍系の斯波義敏(しばよしとし:1435~1508)が家督を継ぎました。義健と義敏とは4代祖先が同一人物という遠縁に当たります。
義敏の家督相続には、斯波家臣の有力者であった甲斐常治や朝倉孝景(あさくらたかかげ:1428~1481)らが猛反対しました。特に越前守護代である甲斐常治は、
「義敏を越前には入れさせない」
などと放言して憚りません。義敏は憤慨して、甲斐常治の横暴を幕府に訴え出ます。
この時点で義政の周辺には、前述のとおり実母・日野重子、管領・畠山持国、乳母・今参局らがいました。それ以外にも、宿老にして前管領である細川勝元と、政所執事・伊勢貞親(いせさだちか:1417~1473)がいました。
この伊勢貞親は政所執事(まんどころしつじ)という役職に就いており、財政を切り盛りしていた上に将軍への取次を一手に握る、現在でいうなら財務大臣と官房長官を兼ねるような役割を務めていました。守護職には任じられていないため領地は少ないですが、かなりの実力者といってよいでしょう。
その伊勢貞親は、甲斐常治の妹を妾としていました。そのため甲斐常治の主張が伊勢貞親を通して将軍義政に届けられてしまい、斯波義敏の訴えは全く聞き入れられません。義敏はひどく伊勢貞親を恨みました。
この状況には、細川勝元も憤りました。勝元は享徳元(1452)年11月に畠山持国から管領職を譲られたばかりで(管領職はこの頃、持国→勝元→持国→勝元の順で両者が交互に務めています)、相変わらず実力者でした。勝元が義政に激しく抗議したため、さすがの甲斐常治も斯波義敏を守護として認めざるを得なくなりました。
義政は享徳2(1453)年2月に犬追物を見物した際、「なんと騒々しいものか」と嘆息したとの記録があり、武芸には関心がなかったようですが、政治にはなおも興味津々です。
5月には、勝元が将軍決裁を経ずに伊予守護の補任や遠江の訴訟について命令を発したため、義政がこれを戒めたところ、勝元は辞意を表明して不服を示しました。辞意は押しとどめられましたが、義政はせっかく政治をやりたいのに勝元が全てを牛耳っており、どうも思い通りにいかないようです。
勝元だけではありません。畠山持国、日野重子、今参局、伊勢貞親と、義政の周囲には癖の強い人物が揃っており、それぞれが自分の損得勘定で動いており、あっちを立てればこっちが立たず、揉めるのです。義政はなかなか思う通りに政務を差配できず、やきもきしていたでしょう。
だんだん進みが遅くなって来ました。応仁の乱まであと少しのはずなのですが・・・。
