日本人の物語01279【室町/義満期】義満期総括
やっと義満が死去するところまで来ました。一つのチャプターが終わると「ああ、書き進んだなあ」という感慨が湧きます。ここまで読んで来た方なら共感いただけると思いますが、義満、かなり性格悪いですよね。
義満が南北朝合一という祖父の代から残された大事業を実現した元中9/明徳3(1392)年閏10月5日から、突然の死を迎える応永15(1408)年5月6日までの16年間を見てきました。この間、朝廷は義満の理不尽な要求に耐え抜いてきました。
そもそも義満におもねることで最大限の財政的援助を引き出し、朝廷の威信を捨ててでも実利を得ようと考えたのは二条良基でした。その二条良基は元中5/嘉慶2(1388)年に死去したのですが、良基の死後にその政策のツケが回ってきたといえます。良基が想定していたのはあくまで摂関家の威信を捨てるところまでだったでしょうが、想定を大きく超え、義満は天皇・上皇の威信までも侵食してきたのです。
二条良基の死後、関白職を継いだ二条師嗣は義満の怒りを買って出家させられ、さらにその後を継いだ一条経嗣は尊号問題をめぐって義満の機嫌を取り続けることを余儀なくされました。
一方、義満の武家に対する統制強化の例としては、応永の乱により最大勢力の一つ・大内義弘が滅ぼされたことが挙げられます。明徳の乱における山名氏清討伐は明らかに義満側の挑発によるものでしたが、応永の乱については義満・義弘いずれから仕掛けたものか判然としません。あわせて、乱後には今川了俊が謹慎を余儀なくされました。
初期の鎌倉幕府において、梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛が次々と滅ぼされたのに比べ、室町幕府もまた斯波高経・仁木義長・畠山国清・細川清氏・山名氏清・大内義弘と有力守護が次々と討伐対象となっています。実に似た雰囲気ではありますが、鎌倉幕府との大きな違いは
「いずれの反乱も、氏族そのものが壊滅させられるには至らず、家督継承が認められている」
という点でしょう。
斯波高経は討伐されるどころか、息子の義将を管領に据える形で懐柔され、仁木義長は許されました。畠山国清・細川清氏・山名氏清は討伐されつつも、畠山義深・細川頼之・山名時熙の家が残っています。今川了俊も謹慎させられましたが、その甥の泰範が家督を継承しています。そして大内義弘については、最後まで逆らったはずの弟・盛見がお咎めなしで今も周防・長門に君臨しているのです。
鎌倉幕府は有力氏族を滅ぼして全ての財を北条氏に集中させましたが、室町幕府は力をつけ過ぎた守護を倒しつつ、その財は別の守護なりに分け与えて適度に権力を分散させています。将軍家への不満が出づらいという点では、鎌倉幕府よりも上手く政務を切り盛りしているように見えますが、将軍家は危うい均衡の上に君臨しているともいえます。
