日本人の物語00214【奈良】橘諸兄登場
さて、藤原四子が死去する2年前の天平7(735)年、吉備真備と玄昉が帰国して来ました。唐から学ぶべきことは多いはずですが、四子は関心を示さず、彼らを重用しませんでした。四子は権力闘争にしか興味がなかったのかもしれません。
一方で、彼らに目を付けた政治家がいました。葛城王(かつらぎおう:684~757)という皇族です。
葛城王は天武天皇13(684)年、美努王と県犬養三千代の間に産まれました。県犬養三千代のことをご記憶でしょうか。美努王との間で葛城王を産んだ後、藤原不比等と再婚して光明子を産んだ人物です(00206回参照)。その後元明天皇から「橘」の姓を賜ったことで「橘三千代」と名乗るようになりました。
葛城王は吉備真備と玄昉に接近し、唐の情報を得ました。唐の最新の知見を政治に生かしたいと考えたのでしょう。
天平8(736)年11月17日、その葛城王は臣籍降下して、橘諸兄(たちばなのもろえ)と名乗りました。母方の姓を名乗ったわけです。臣籍降下とは、皇族が皇籍を離脱して天皇の家臣となることを言い、皇族が増えて財政を圧迫しそうになるとたびたび用いられる手段です。
そして天平9(737)年、藤原四子が一挙に病没したことで、政権トップの座が不在となりました。この政治空白のさなか、ちょっとした偶然の出来事により、諸兄は聖武天皇に気に入られ、昇叙の階段を一挙に駆け上がることとなります。その偶然とは、またもや聖武天皇の母・藤原宮子に関するものでした。あの長屋王失脚の原因となった「大夫人呼称問題」の藤原宮子です。
藤原宮子が聖武天皇を出産して以降、精神を病み、そのせいで一度も息子に会っていなかったことは既に触れましたね。その藤原宮子の精神病を玄昉が見事完治させ、聖武天皇と宮子との会見が実現したのです。聖武天皇はひどく喜び、玄昉と、その玄昉に近い橘諸兄を重用するようになりました。天平10(738)年に、橘諸兄はなんと右大臣に登用されます。
一方、藤原氏の方も負けてはいません。同年1月13日、聖武天皇と光明皇后との間に産まれた阿倍内親王が皇太子となりました。女性が皇太子になったのは、日本史上このときだけです。藤原氏がいかに強引に運動したかが窺われますね。
諸兄は極めて温厚な人柄で、藤原氏のように謀略を尽くして政敵を討つような真似はしません。権力欲があったわけでもないのに、たまたま藤原四子が次々と病死したため、期せずして政権のトップに躍り出たといった状況です。
一方、藤原氏の方はというと、どうにかして諸兄を引きずり下ろそうと必死に画策します。橘三千代にとっては息子(諸兄)を担ぐ勢力と娘(光明子)を担ぐ勢力との闘争ですから、どちらの応援をすればよいのか、微妙な立場だったと考えられます。
