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日本人の物語01309【室町/義持期】応永の外寇

本稿のチャプタータイトルは、「スマホで(デフォルトで)目次を見たときに1行以内に記載される長さ」に調整したのですが、最近noteのフォントが変更されたらしく、チャプターによっては2行で記載されるようになってしまいました。タイトルをさらに短くすべきかどうか検討中です。

 応永26(1419)年1月。一度は鎮圧されたはずの上総本一揆がまたもや決起し、持氏は扇谷上杉持定を派遣して討伐に当たらせました。5月6日に持定は一揆勢が立て籠もる坂本城(千葉県長南町)を陥落させ、首領の榛谷重氏(はんがやしげうじ:?~1419)を捕らえました。榛谷重氏は由比ヶ浜で処刑され、この鎮圧戦は成功を収めたものの、持定は攻略戦のさなかに病を発症し、5月21日には病没してしまいます。
 同じ頃、北九州から朝鮮半島にかけての近海では、相変わらず倭寇が猛威を振るっていました。5月5日には対馬を本拠とする倭寇の大軍が大挙して朝鮮沿海を襲い、大きな被害をもたらしました。前年4月に対馬守護・宗貞茂(そうさだしげ:?~1418)が没し、その子の貞盛(さだもり:?~1452)が幼少で、取締りが弱まったことが原因とみられます。
 大きな被害を受けた朝鮮国では、5月13日、前国王・太宗(たいそう:1367~1422)が大臣らと協議し、
「対馬を占領して、そこに帰国してきた倭寇を叩こう」
と決定しました。なかなか強気な作戦です。
 この作戦の内容が漏洩することを防ぐため、5月20日に朝鮮王府は宗氏からの使者を拘留しました。この作戦にかなり本腰を入れていることが見て取れます。一方で「対馬を占領するからといって九州まで侵略する意図はない」旨を説明するため、5月23日に九州探題からの使者に対馬出兵の意図をわざわざ説明しています。
 6月9日。太宗は対馬遠征の命令を発しました。兵船227隻、兵員17285人の大軍勢で、司令官は三軍都体察使の李従茂(りじゅうも:1360~1425)です。彼らは6月12日に乃而浦を出航しました。
 そして6月20日の昼、対馬の尾崎浦に10隻の船が現れ、島民の殺害・捕獲が始まりました。
 しかし朝鮮軍は思わぬ苦戦に遭いました。6月26日に李従茂は小船越(こふなこし:対馬の中程にある地峡)に築いた砦に入りましたが、対馬勢の伏兵から攻撃を受け、百数十人の死者を出したのです。
 7月3日。間もなく台風シーズンが到来するので、朝鮮軍は巨済島へと撤退しました。効果が不十分ということで、再度の遠征も検討されましたが、6月15日に倭寇数千人が遼東の望海堝という場所で明軍に撃破されたとの知らせが入ったため、十分打撃は与えただろうと判断され、中止されました。
 この事件を「応永の外寇」といいます。元寇に比べると小規模な事件ですが、やがて重大な外交問題を惹起することとなります。

「韓国人の名前を日本読みにするか韓国語読みにするか」も難しいポイントです。古い本では日本読みしか載っておらず、韓国語で何と読むのかが分からないものもあります。

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