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日本人の物語01286【室町/義持期】応永飛騨の乱

noteの連続投稿の最長記録は何日なんでしょうか。2000日という人を見つけましたが、それ以上の人はいるのでしょうか。気になります。
ちなみに私は10000日を目指してます。

 応永17(1410)年11月27日、嵯峨に住んでいた南朝方の後亀山法皇が吉野に出奔するという事件が起こりました。後亀山といえば南北朝合一のとき、三種の神器の引き渡しに応じた南朝方の最後の天皇です。出奔の原因は、
「後小松天皇が子の躬仁王(みひとおう:後の称光天皇:1401~1428)を次期天皇に内定させた」
との情報が入ったことに不満を示したためと噂されました。
 確かに、南北朝合一の際に義満が南朝に示した条件は「皇位継承は今後は両統交互とする」というものでした。これが守られないとなると南朝方にとっては一大事です。後亀山法皇とその子孫たちは室町幕府に抗議の意を示し、これ以降「後南朝」として活動していくことになります。まあ、後亀山法皇は応永23(1416)年にはひょっこり戻ってくるのですが。
 後亀山出奔で政情がキナ臭くなってきたところで、さらなる争いが起こります。12月21日、将軍義持が近江守護の六角満高に対し、幕命に背いた姉小路古川尹綱(あねがこうじふるかわただつな:?~1411)を討つよう命じたのです。この姉小路家というのは飛騨国司を務めていた家柄で、公家です。
 討伐の理由は応永15(1408)年12月、義持が尹綱に対し、飛騨国の江名子郷・松橋郷の領地(岐阜県高山市)を山科家に返還するよう命じたにもかかわらず、尹綱が斯波義将の庇護をいいことにこれを拒絶したことでした。当時は斯波義将が存命で義持も強くは言えなかったのですが、義将死去を契機に斯波派をつぶしておこうと思ったのでしょう。
 ところが六角満高はこの討伐令を拒否します。義持の権威もまだまだのようです。
 応永18(1411)年7月28日。義持は今度は尹綱討伐を飛騨・出雲・隠岐守護の京極高光(きょうごくたかみつ:1375~1413)に命じました。高光は病身だったため討伐を弟の高数(たかかず:?~1441)に任せましたが、いずれにせよ京極家は義持の命令を履行し、尹綱を討ちました。
 義持は京極高光に褒美として、飛騨国富安郷(岐阜県飛騨市)・石浦郷・江名子郷・岡本郷(いずれも岐阜県高山市)を与えました。
 問題は、命令を拒絶した六角満高の処置です。義持は応永19(1412)年8月23日に六角満高から近江守護を取り上げ、これを六角一族の青木持通(あおきもちみち)に与えました。これはいかにも軽量級の人事で、青木家がとても近江守護にふさわしい家格とは思えません。
 青木の守護在職は一瞬のことでした。満高の必死の謝罪が功を奏し、同年10月には近江守護に再任されています。おそらく義持は、最初から満高に近江守護を返すつもりで取り上げたのでしょう。有力者ではなく六角家臣の青木を守護に据えたのは、後腐れなく満高を再任させるためだったと思われます。

「応永」という元号は35年も続くので、戦乱名のネーミングが大変なようです。大内義弘が起こした反乱は「応永の乱」と名付けられたわけですが、それ以外にも多くの戦乱が発生したため、「上杉禅秀の乱」と反乱者の名前を付けたり、「応永飛騨の乱」と発生地の名前を付けたりしているようで。
歴史学者の人たちも大変ですね。

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