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日本人の物語00181【飛鳥】蘇我石川麻呂の死*

 中大兄皇子は政権樹立後すぐに政敵・古人大兄皇子を葬ったわけですが、次の敵に魔手を伸ばしていきます。次の敵とは、新政権で右大臣に就任した蘇我石川麻呂でした。猜疑心に満ちた中大兄皇子は、婚姻により同盟を組んだはずの石川麻呂を葬ろうとするのです。
 大化5(649)年3月17日。左大臣・阿部内麻呂が病死しました。恐らく、この阿部内麻呂こそが、派閥対立を起こさないための潤滑油のような存在だったのでしょう。彼が病死した直後の3月24日、蘇我日向が「兄・石川麻呂が中大兄皇子の殺害を企てている」と密告して来ました。もちろん事実無根の讒言(ざんげん)でしょう。中大兄皇子が石川麻呂を葬ろうとして、理由を作ったものと考えられます。
 中大兄皇子は石川麻呂を取り調べるため、石川麻呂の家に兵を派遣します。
 石川麻呂の長男である蘇我興志(そがのこし)は、父に「一戦交えましょう」と進言しますが、石川麻呂はこれに承知せず、自ら縊死しました。これに連座して23人が殺され、15人が流罪となりました。
 日本書紀は、その後なんと石川麻呂が無実であったと判明した旨を記述しています。事件後、石川麻呂の財産を没収したところ、書物や宝物の上に「皇太子殿下のもの」と書いてあったことで石川麻呂の忠誠が分かり、中大兄皇子は大いに後悔したというのです。
 中大兄皇子は、石川麻呂を讒言した蘇我日向を大宰帥(だざいのそつ:九州にあった政府の出先機関「大宰府」の長)に左遷しました。石川麻呂の娘である遠智娘は、悲しみのあまり病の床につき、そのまま死去してしまいます。
 日本書紀は一体なぜこんな記述を残したのでしょうか。そして、本当に讒言だったのならば、なぜ讒言した側の日向を左遷という程度の措置で済ませたのでしょうか。
 一説には、日本書紀を編纂した際の天皇である持統天皇の影響があると言われています。持統天皇の父は天智天皇(中大兄皇子)で母は遠智娘です。そして母方の祖父が蘇我石川麻呂なのです。石川麻呂が殺されたとき、鵜野讃良皇女(後の持統天皇)はまだ4歳でした。この事件によって母を失った鵜野讃良皇女にとって、父は憎悪の対象となったことが推察されます。持統天皇としては、「石川麻呂が正しく、中大兄皇子が間違っていた」と記載せずにはいられなかったのではないでしょうか。
 漫画家・里中満智子に『天上の虹』という代表作があります。持統天皇を主人公とした作品です。一般的に悪役とされがちな持統天皇を主人公に据えるとは珍しいですが、日本書紀に記述のない部分に対しては大胆な仮説を交えつつ、概ね史実と齟齬がないよう構成したすばらしい作品です。
 その『天上の虹』の中では、4歳の鵜野讃良皇女が母を失い、「お父様よりえらくなってみせる」と悲壮な決意を固める場面が描かれているのです。天皇即位を決意するには早すぎると思いますが、石川麻呂の死が父を憎む契機となったという説はあり得るだろうと思われます。

蘇我石川麻呂が建てた山田寺の跡。石川麻呂はこの金堂の前で自害した。2026年5月5日撮影。
金堂の前というのはこのあたりか。2026年5月5日撮影。

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