日本人の物語00701【鎌倉中期】時宗死す
元寇という一大国難が去った後も、鎌倉幕府は元の3回目の侵攻に備えて九州の防備を固めていました。しかし元は大越国(ベトナム)との戦いに疲弊してしまい、日本に攻め込んでくることはありませんでした。
さて、皇室は相変わらず持明院統と大覚寺統に分裂したまま対立していましたが、弘安6(1283)年9月4日、大きな動きがありました。莫大な荘園群・八条院領を所有していた安嘉門院邦子内親王(あんかもんいんくにこないしんのう:1209~1283)が、相続人のないまま死去したのです。
八条院領とは、後鳥羽上皇が可愛いがっていた次男・順徳上皇が相続したものでした(00610回参照)。承久の乱によって順徳上皇が失脚したことで八条院領は後高倉法皇の所有に移り、その後高倉法皇の娘である邦子内親王の手に渡っていたのです。邦子内親王に相続人がいない以上、亀山上皇としては何としても手に入れたい土地でした。
というのも、ライバルである兄・後深草上皇は既に長講堂領という巨大荘園群を保有しており、既に強大な権益を獲得していたのです。兄への対抗心を持つ亀山上皇は、
「出家して政治的野心のないことを示すので、八条院領を相続したい」
と幕府に申請しました。
皇室を統制しようという気をさらさら持たない時宗は、
「わざわざ出家の必要なく相続を認めてよい」
との返答をしました。こうして持明院統(後深草上皇)と大覚寺統(亀山上皇)は荘園保有量においても拮抗するようになります。
この時代の朝幕関係について、かつては「鎌倉幕府は朝廷の権限を弱めようと画策していた」と評価されていたのですが、最近の研究では、「むしろ朝廷側から幕府にすり寄るように何事も相談するようになり、幕府側ではそれを迷惑に感じていた」と考えられています。持明院統にしても大覚寺統にしても、幕府のおかげで即位できた後嵯峨天皇の子孫ですから、幕府には好意的な感情を持っていたのでしょう。幕府への工作に成功した側が有利になると見た両統は必死に運動し、時宗はどちらの味方をするでもなく両統の融和を図る、という構図が何年も継続しています。
蒙古襲来と両統の対立に悩まされた時宗は病に倒れ、弘安7(1284)年4月4日に32歳で死去しました。杜世忠を斬ったことにより第二の戦を招いたとして否定的評価を下す人と、属国になることを断固拒否して国の威信を守ったとして肯定的評価を下す人と、時宗の評価は真っ二つに分かれています。
